バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらすことであり、彼らの古い命を終わらせて、キリストの新しい命を彼らに発芽させることによって、彼らが王国の民となるためです。バプテスマのヨハネの推薦の務めは、水だけによる準備のバプテスマで始まりました。今や、天の王が彼の務めを地上で成し遂げた後、死と復活の手順を経過し、命を与える霊と成って、弟子となった人たちを、三一の神の中へとバプテスマするよう弟子たちに命じられました。このバプテスマには二つの面、水による目に見える面と、聖霊による目に見えない面があります(使徒2:38,41.10:44―48)。見える面は見えない面の表現、証しであり、見えない面は見える面の実際です。その霊による見えないバプテスマがなければ、水による見えるバプテスマはむなしいです。また水による見える面がなければ、その霊による見えない面は抽象的であり、実際的ではありません。両方とも必要です。主は弟子たちにこのバプテスマを命じた後、間もなく、彼らと全召会を、聖霊の中にバプテスマされました(Iコリント12:13)。ユダヤ人の部分はペンテコステの日に(使徒1:5.2:4)、異邦人の部分はコルネリオの家でです(使徒11:15―17)。それから、これに基づいて、弟子たちは新しく悔い改めた者たちをバプテスマしました(使徒2:38)。それは水の中にだけでなく、キリストの死の中へと(ローマ6:3―4)、キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)、三一の神の中へと(19節)、キリストのからだの中へと(Iコリント12:13)です。キリストの死と埋葬を象徴する水は、バプテスマされる者の古い歴史を終わらせる墓と考えられます。キリストの死がキリストの中に含まれており、キリストはまさに三一の神の化身であり(コロサイ2:9)、三一の神は結局キリストのからだと一つであるのですから、新しい信者たちをキリストの死の中へと、キリストご自身の中へと、三一の神の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマすることは、まさに一つの事を行なうことです。すなわち、消極面では彼らの古い命を終わらせることであり、積極面ではキリストのからだのために、彼らを新しい命、三一の神の永遠の命をもって発芽させることです。ですから、ここで主によって定められたバプテスマは、人々を彼らの命から、天の王国のために、からだの命の中へとバプテスマすることです。
|