この節の実際の霊である「彼」こそ、18節(18節)の主ご自身である「わたし」となられます。これは、肉体にあったキリストが、死と復活を経過して、命を与える霊、霊である(ニューマ的)キリストと成られたことを意味します。コリント人への第一の手紙第15章45節(Iコリント15:45)は、これを確証します。この節は復活の事柄を取り扱って、「最後のアダム(肉体にあるキリスト)は命を与える霊と成った」と言っています。