この節では、二つのギリシャ語が、「知る」に対して用いられています。最初は外側の、客観的な知識を意味します。第二は内側の、主観的な意識のことを言います。主イエスはパリサイ人に、彼らは父なる神を、外側の客観的な知識においてさえ知っていないが、自分は御父を、内側の主観的な意識において知っている、と言われました。