ギリシャ語は「プレソー(pletho)」(4:8、31.9:17.13:9.ルカ1:15、41、67でも使われている)、外側で満たす。プレロー(pleroo)の本書での使われ方によれば、この言葉は、2節(2節)で風が家の内側を満たしたように、器の内側を満たすことを示します。プレソーは、この節でその霊が弟子たちを外側で満たしたように、人々を外側で満たすことを示します。彼らが内側で、本質的にその霊で満たされたのは(プレロー――13:52)、弟子たちのクリスチャン生活のためでした。彼らが外側で、エコノミー的にその霊で満たされたのは(プレソー)、彼らのクリスチャンの務めのためでした。内側を満たす霊、本質上の霊は、弟子たちの中にあり(ヨハネ14:17.ローマ8:11)、外側を満たす霊、エコノミー上の霊は、彼らの上にあります(1:8.2:17)。キリストにあるすべての信者は、聖霊の両方の面を経験すべきです。キリストでさえ人として、同じことを経験されました。彼はその存在と生活のために、本質的に聖霊から生まれ(ルカ1:35.マタイ1:18、20)、彼の務めと動きのために、エコノミー的に聖霊で油塗られました(マタイ3:16.ルカ4:18)。本質上の霊は彼の内側にあり、エコノミー上の霊は彼の上にありました。 注ぎ出された霊の外側の満たしは、昇天したかしらが、彼のからだをその霊の中へとバプテスマするためでした。ペンテコステの日に、ユダヤ人信者たち、すなわち彼のからだの最初の部分がバプテスマされました。そしてコルネリオの家で、異邦人信者たち、すなわち彼のからだの第二の部分が同じようにバプテスマされました(10:44―47)。この二段階によって、彼は彼のからだ全体を、ご自身の適用と実際化であるその霊の中へと、一度限りバプテスマされたのです(Iコリント12:13)。彼が彼のからだをその霊の中へとバプテスマしたことは、ご自身の中へとバプテスマしたことです。これは、からだのかしらであるキリストによって、第1章5節(1:5)で約束された聖霊の中にバプテスマすることの成就です。
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