すなわち、良しとされるためのテスト。それは、信仰そのものではなく、信仰の試し、テストです。すなわち、賞賛に値するかどうかがわかるためです。(学生の勉学を試す学校の試験のように、学生の勉学そのものではなく、それが合格かどうかの問題です)。もちろん、信仰が試されることは、正当な信仰から来ます。ただここの強調は、信仰ではなく、試練によって、信仰が苦難を通して証明されることです。