旧創造は、アダムにあるわたしたちの古い人(エペソ4:22)、わたしたちの生まれながらの天然の人であって、神の命と神聖な性質がありません。新創造は、キリストにある新しい人(エペソ4:24)、その霊によって再生された人であり(ヨハネ3:6)、神の命と神聖な性質がその中に造り込まれており(ヨハネ3:36.IIペテロ1:4)、キリストをその構成要素としていて(コロサイ3:10―11)、新しい構成となったものです。これは召会の性質、召会の内なる、内在的、有機的な構成要素です。こうして新創造は、神の子たちから成る、団体的で神聖な子たる身分です(3:26.4:5,7)。それはキリストの贖い、その霊の再生、神がご自身をわたしたちの中に分与されることを通して、そして、わたしたちが団体的にこの新しい人として、三一の神との有機的結合の中へと入ることを通して、生み出されました。 旧創造が古いのは、神の要素がないからです。新創造が新しいのは、神をその要素としているからです。わたしたちはまだ旧創造ですが、その霊によって歩く時(5:16,25)、新創造の実際を経験します。本書のおもな結果は、わたしたちが新創造であること、そして三一の神との有機的結合を通して、新創造によって生きるべきであることです。この新創造は、神の永遠の目的を成就します。すなわち、神の子たる身分の中で神を表現します。 割礼は律法の規定です。新創造は、神聖な性質のある命の傑作です。前者は死んだ文字のものであり、後者は生ける霊のものです。ですから、新創造は重要です。本書は、律法も割礼も無力であることを暴露します。律法は命を分け与えて、わたしたちを再生させることはできません(3:21)。また割礼は、わたしたちに活力を与えて、新創造を生きさせることはできません(5:6)。ところが、わたしたちの中に啓示されている神の御子は(1:16)、わたしたちを生かして、新創造とすることができます。またわたしたちの中に生きておられるキリストは(2:20)、わたしたちに彼の命の豊富を与えて、新創造を生きさせることができます。律法はキリストに置き換えられ(2:19―20)、割礼は、キリストの十字架によって成就されました(14節)。ですから、割礼も無割礼も重要ではなく、ただキリストをその命とする新創造だけが重要です。新創造であることは、その霊へとまくための理由であり、結果です(8節)。律法を守ることと割礼を行なうことは、肉へとまくことです。それらは旧創造を変化させません。しかしその霊へとまくことは、わたしたちを新創造にします。それは、その霊によって再創造され、神聖な命によって造り変えられ、手順を経た三一の神の豊富な要素が、ご自身をわたしたちと混ざり合わせることによって構成されたものです。
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