出典 |
フットノート |
ピリピ 3:16 注1 |
この言葉は、これまでの節を結び、わたしたちにこの一つの事だけ、「同じ規範によって歩きなさい」と命じます。 |
ピリピ 3:16 注2 |
「わたしたちが到達したところにしたがって」は、「歩こう」を修飾します。 |
ピリピ 3:16 注3 |
同じ路線、同じ進路、同じ歩調。パウロがこの言葉を使っているのは、わたしたちが基本的な原則にしたがって、同じ進路によって歩くべきことを示します。 |
ピリピ 3:16 注4 |
ギリシャ語は「ストイケオ」(stoicheo)、整然と歩く、という意味です。「ステイコー」(steicho)から派生して、「正規に整列する」、「軍隊の中で行進する」、「歩調を合わせる」、「徳と敬虔に一致する」、という意味になります(ローマ4:12.ガラテヤ5:25.6:16でも使われている)。それは17(17節)、18節(18節)の「歩く」という言葉とは異なります。17(17節)、18節(18節)の「歩く」は「生活する」、「振る舞う」、「たずさわる」、「歩き回る」ことを意味します(ローマ6:4.8:4.13:13.Iコリント3:3.ガラテヤ5:16.エペソ4:1、17でも使われている)。16節(16節)のこの言葉によって使徒は―わたしたちが到達したところ、到達した状態にしたがって―同じ規範によって、同じ路線の中で、同じ進路の中で、同じ段階において歩き、生活を整えることを命じました。わたしたちはみな、霊的生活においてどのような状態に到達したとしても、使徒が行なったように、同じ規範によって、同じ進路の中で、歩かなければなりません。すなわち、上に召された神の賞として、極みまでキリストを獲得するために、目標に向かってキリストを追い求めなければなりません(参照、ガラテヤ5:25のノート2)。 |
ピリピ 3:18 注1 |
おそらく、エピクロス派の哲学を実行していた人たちでしょう。この哲学は、食べ飲みすることの快楽を提唱し、その他の事柄の享楽にふけることを実行していましたが、それらはすべて、キリストの十字架に相反するものです。2節(2節)で、ユダヤ教宣教者は、ピリピの信者たちを駄目にしました。この節で、エピクロス派の者たちが、彼らを駄目にしました。ユダヤ教宣教者はユダヤ教の起源であり、エピクロス派の者は異教の源でした。 基本的に、この章の勧告は、これら二組の人たちに基づいていました。ユダヤ教宣教者について言えば、魂、特に思いを取り扱うことに関して(1―16節)、ピリピ人を啓発しました。エピクロス派の者たちを暗示した時、それは肉体を取り扱うことに関して、信者たちを教えました(17―21節)。魂を取り扱うことで、わたしたちはすべての宗教、哲学、文化的な事柄を、ちりあくたと勘定すべきです。肉体を取り扱うことでは、物質的な必要を顧みて、肉体の過度の享受にふけらないことです。 |
ピリピ 3:18 注2 |
キリストの十字架は、肉体の情欲にふけることを終わらせました(ガラテヤ5:24) |
ピリピ 3:19 注1 |
エピクロス派の者は、彼らの腹を礼拝し、彼らの胃袋に仕えていました。彼らは食べ飲みの享楽を提唱して、倫理や道徳以上に、肉体の放縦に関心がありました。彼らの腹は、彼らの神でした。 |
ピリピ 3:19 注2 |
肉体、物質、食べ飲みの事柄です。わたしたちは、食物や衣服が必要です。しかしながら、わたしたちはこれらの事柄を放縦すべきではありません。 |
ピリピ 3:20 注1 |
あるいは、市民権。ギリシャ語は「国家」、「生活の集合体」を意味します。 |
ピリピ 3:20 注2 |
前の節の「地上」と対比しています。エピクロス派の哲学を実行する者は、思いを地上の事柄に置きますが、わたしたちの国籍は天にあります。 |