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出典

フットノート

啓示録 2:4 注2 キリストのからだとして(エペソ1:23)、召会は命の事柄です。新しい人として(エペソ2:15)、それはキリストのパースンの事柄です。キリストの花嫁として(ヨハネ3:29)、それは愛の事柄です。エペソ人への最初の手紙が告げているのは、召会生活のためにわたしたちは内なる人の中へと増強され、キリストがわたしたちの心の中にホームを造り、わたしたちが愛の中に根ざし土台づけられ、知識を超越したキリストの愛を知り、満たされて神の全豊満へと至る必要がある(エペソ3:16-19)、また、恵みが主イエスを愛するすべての人と共にあるのは、召会生活のためである(エペソ6:24)、ということです。今や、このエペソ人への第二の手紙は、召会の堕落が、主に対する初めの愛からわたしたちが離れることに始まることを啓示しています。愛以外の何ものも、わたしたちを主との正当な関係に保つことはできません。エペソに在る召会には良いわざがあり、主のために労苦し、苦難を耐え忍び、偽使徒たちを試しました(2-3節)。しかし、召会は主に対する初めの愛を離れました。初めの愛を離れることは、召会のこれから続く段階でのすべての堕落の根源です。
啓示録 2:5 注1 主に対する初めの愛を離れて、しかも悔い改めないなら、わたしたちは主の証しを失い、そして燭台はわたしたちから除き去られます。
啓示録 2:6 注1 ギリシャ語は、二つの言葉から成っています。一つは、「征服する」あるいは「勝利する」を意味し、もう一つは、「一般の人人」、「世俗の人々」、「平信徒」を意味します。ですから、「一般の人々を征服する」、「平信徒の上で勝利する」を意味します。「ニコライの者たち」は、一般の信者たちよりも自分を一段と高く見なす者たちの群れを言っているに違いありません。これは疑いもなく、カトリックとプロテスタントによって受け継がれ、確立された聖職者階級制度でした。主はこれらのニコライの者たちのわざと振る舞いを憎まれます。ですから、わたしたちも、主の憎まれるものを憎まなければなりません。
 神はエコノミーの中で、すべて彼の民がご自身に直接仕える祭司となることを意図されました。出エジプト記第19章6節(出19:6)で、神はイスラエルの子たちを、祭司の国となるように定められました。これは、彼ら全員が祭司となるのを、神が望まれたことを意味します。しかしながら、彼らは金の子牛を拝んだために(出32:1―6)、祭司職を失いました。そしてレビの部族だけが、神に対する忠信のゆえに選ばれ、神の祭司としてのイスラエル全国民に置き換わりました(出32:25―29申33:8―10)。こうして、神とイスラエルの子たちの間に中間階級ができました。これがユダヤ教では、一つの強力な制度となりました。新約で、神はご自身のエコノミーにしたがって、当初の意図に戻られます。それによって、彼はキリストにあるすべての信者を祭司とされました(1:65:10Iペテロ2:5,9)。しかし初代の召会の終わりごろ、第一世紀においてさえ、ニコライの者たちが中間階級として介入し、神のエコノミーを台無しにしました。召会歴史によれば、これはローマ・カトリックが採用し、プロテスタントが持続した制度となりました。今日、ローマ・カトリックには司祭制度があり、国立教会には聖職者制度があり、独立教会には牧師制度があります。これらはすべて中間階級であり、すべての信者の万人祭司職を損なうものです。こうして、二つの明確な階級、聖職者と平信徒があるのです。しかし正当な召会生活には、聖職者も平信徒もあってはなりません。すべての信者は神の祭司であるべきです。中間階級は、神のエコノミーにおける万人祭司を破壊するので、主はそれを憎まれます。
 使徒行伝第6章5節(使徒6:5)の七人の奉仕者の中に、ニコラオス(ギリシャ語)という名の人がいました。このニコラオスが、ニコライの者たちの最初の人であったことを示すものは、召会歴史にはありません。
啓示録 2:7 注1 わたしたちの角度や位置が正しくても、聞く正しい耳を持っていないかもしれません。第1章は見ることを強調しており、第2章と第3章は聞くことを強調しています。霊的な事では、見ることは聞くことにかかっています。本書の筆者は、まず声を聞き(1:10)、それからビジョンを見ました(1:12)。もしわたしたちの耳が鈍くて聞くことができないなら、わたしたちは見ることができません(イザヤ6:9―10)。ユダヤ人は主の言葉を聞こうとしなかったので、主が新契約にしたがって行なっておられることを、見ることができませんでした(マタイ13:15使徒28:27)。主は常にわたしたちの耳を開いて、彼の声を聞かせようとされます(ヨブ33:14―16イザヤ50:4―5出21:6)。それは、わたしたちが彼のエコノミーにしたがって、物事を見るようになるためです。鈍い耳は割礼される必要があります(エレミヤ6:10使徒7:51)。罪人の耳は贖いの血で清められ、その霊で油塗られる必要があります(レビ14:14,17,28)。祭司として主に仕えるために、わたしたちの耳は贖いの血で清められる必要があります(出29:20レビ8:23―24)。本書では、その霊が諸召会に語っておられるので、わたしたちはみな耳が開かれ、割礼され、清められ、油塗られて、その霊の語りかけを聞く必要があります。
啓示録 2:7 注2 第2章と第3章に記録された七つの手紙のそれぞれの冒頭で、語られるのは主です(1,8,12,18節3:1,7,14)。しかし、それぞれの手紙の終わりでは、諸召会に語られるのはその霊です(7,11,17,29節3:6,13,22)。これは、その霊が主であり、主がその霊であることを示しているだけでなく、召会の堕落の暗黒の中では、その霊が極めて重要であることを強調しています。これは、第1章4節(1:4)で、七倍に強化された霊が示しているとおりです。同じ強調が、第14章13節(14:13)と第22章17節(22:17)でも見られます。
啓示録 2:7 注3 一方で、七つの手紙は、それぞれ個別の召会にあてた主の言葉です。しかしもう一方で、それはすべての召会にあてられたその霊の言葉です。すべての召会は、特に自分たちにあてて書かれた手紙に注意を払うだけでなく、他の召会にあてて書かれたすべての手紙にも注意を払うべきです。これは、すべての召会が、その霊にある主の証しとして同一であることを意味しています。
 今日その霊は諸召会に語っておられるのですから、わたしたちは召会の中にいて、正しい位置で、その霊の語りかけを聞かなければなりません。そうでないと、どうして聞くことができるでしょう?
啓示録 2:7 注4 これら七つの手紙で勝利を得るとは、諸召会の堕落した状態に勝利することです。この手紙では、勝利を得ることは、主に対するわたしたちの初めの愛を回復し、そして主が憎まれる聖職者階級制度、ニコライの者たちのわざを憎むことです。
啓示録 2:7 注7 ルカによる福音書第23章43節(ルカ23:43)のパラダイスは、アブラハムとすべての死んだ聖徒たちがいる、心地よい安息の場所です(ルカ16:23―26)。しかし、この節の神のパラダイスは新エルサレムです(3:1221:2,1022:1―2,14,19)。今日の召会は、新エルサレムの前味わいです。わたしたちは、十字架につけられ復活したキリストを命の木として、わたしたちの霊の食物の供給として、召会の中で今日、前味わいとして享受しています。この前味わいの享受は、十字架につけられ復活したキリストを、命の木、命の養いとして、新エルサレムにおける永遠に及ぶ全き享受へと、わたしたちを至らせます。
 厳密に言えば、この節の「神のパラダイスにある命の木から食べ」るというのは、来たるべき千年王国における新エルサレムで、わたしたちの命の供給としてのキリストの、特別な享受を言っています。なぜなら、これは、主が勝利者たちに約束された褒賞であるからです。新天新地における新エルサレムでの命の木であるキリストの享受は、神に贖われたすべての民の、共通の分け前です。しかし、来たるべき千年王国における新エルサレムで、命の木として彼を特別に享受することは、ただ勝利を得た信者たちに対する褒賞です。わたしたちが今日、召会の堕落のすべてのそらすものに打ち勝って、召会で命の木としてのキリストを享受するなら、このように褒賞を受けるでしょう。そうでないと、わたしたちは来たるべき王国で、この特別な享受を得損ないます。もっとも新天新地の新エルサレムでは、永遠にわたって彼を命の木として享受することには、変わりがないでしょう。七つの手紙のそれぞれの終わりでの、褒賞に関する主のすべての約束と、それを得損なうことに関するすべての予言は、来たるべき千年王国での信者に対する取り扱いを言っています。それらは永遠の運命、永遠の救いか永遠の滅びかには関係がありません。
啓示録 2:7 注6 ここの「木」のギリシャ語は、ペテロの第一の手紙第2章24節(Iペテロ2:24)のように、「木材」を意味します。それは、通常「木」に用いられる言葉ではありません。聖書で命の木は、常にわたしたちの食物のための(創2:93:22,24啓22:2,14,19)、神のすべての豊富の化身であるキリスト(コロサイ2:9)を言っています。ここの木は、十字架につけられ(一片の木材としての木に暗示されている―Iペテロ2:24)、復活して(神の命に暗示されている―ヨハネ11:25)、今日、召会の中におられるキリストのことであり、その究極は新エルサレムとなります。そこでは、十字架につけられ、復活したキリストが、神に贖われたすべての民を、永遠にわたって養われる命の木となられるでしょう(22:2,14)。
 神の本来の意図は、人が命の木から食べることでした(創2:9,16)。堕落のゆえに、命の木への道は、人に対して閉ざされました(創3:22―24)。キリストの贖いを通して、命の木(すなわち、人の命としての、キリストにある神ご自身)に触れる道が、再び開かれました(ヘブル10:19―20)。しかし、召会の堕落の中で、宗教とその知識が忍び込みました。宗教は、キリストにある信者が、命の木である彼を食べることからそらしています。ですから、主は勝利者に、褒賞として、神のパラダイスにある命の木であるご自身から食べさせると約束されたのです。これは、彼らが宗教の知識を離れ、ご自身を享受することに戻るようにとの励ましです。この主の約束は、召会を神のエコノミーにしたがって、神の本来の意図に回復します。主が勝利者たちに求められるのは、全召会が、神のエコノミーの中で当然行なうべきことです。召会の堕落のゆえに、主は来て勝利者たちを召し、召会に置き換えて、神のエコノミーを達成されるのです。
 命の木から食べることは、人に関する神の本来の意図であっただけでなく、神の贖いの永遠の結果でもあります。彼の贖われた民はすべて、命の木を享受します。命の木は、永遠にわたって贖われた者が受ける永遠の分け前、神聖な豊富のすべてを伴うキリストです(22:2,14,19)。宗教のそらすことと召会の堕落のゆえに、主は知恵の中で、来たるべき王国でご自身を享受することを褒賞とされます。それは、彼の信者たちが、宗教の教えのそらす知識に打ち勝ち、今日、召会生活にある命の供給としてのご自身の享受に戻って、神のエコノミーを達成するように励ますためです。
 命の木を食べること、すなわち、わたしたちの命の供給としてキリストを享受することは、召会生活の主要な問題であるべきです。召会生活の内容は、キリストを享受することにかかっています。わたしたちが彼を享受すればするほど、その内容はますます豊かになります。しかし、キリストを享受することは、わたしたちが初めの愛で彼を愛することを要求します。もし主に対する初めの愛を離れるなら、わたしたちはキリストの享受を失い、イエスの証しを失います。ですから、燭台はわたしたちから取り除かれます。主を愛すること、主を享受すること、主の証しとなること、この三つの事柄は、並行するのです。
啓示録 2:7 注5 宗教は常に教えます。しかし主は養われます(ヨハネ6:35)。使徒パウロも同じ事を行ないました。すなわち、信者を養いました(Iコリント3:2)。正当な召会生活と召会生活の回復のために、すなわち、クリスチャン生活の正当な成長のために、わたしたちに必要なのは、単なる教えの知的理解ではなく、命のパンとしての主をわたしたちの霊の中に食べることです(ヨハネ6:57)。聖書の言葉でさえ、わたしたちの思いに教える単なる教理と考えるべきではなく、わたしたちの霊を養う食物と考えるべきです(マタイ4:4ヘブル5:12―14)。この手紙で、主は勝利を得る者に、命の木から食べさせると約束されました。これは、創世記第2章8節から9節(創2:8―9)、16節(創2:16)に戻って言及しています。それは、神によって定められた食べる問題についてです。ペルガモに在る召会への手紙で、主は勝利を得る者に、隠されているマナを食べさせると約束されました(17節)。これは、荒野でイスラエルの子たちがマナを食べたことに言及しています(出16:14―16,31)。ラオデキヤに在る召会への手紙で、主は彼に対して戸を開ける者と食事を共にすると約束されました。食事をするとは、単なる一品の食物を食べることではなく、豊富なごちそうを食べることです。これは、イスラエルの子たちが、カナンの良き地の豊かな産物を食べたことを指していると言えるでしょう(ヨシュア5:10―12)。これは、主が神の民によって、正当な食事の回復を願っておられることを示します。すなわち、神によって定められ、予表された命の木、マナ、良き地の産物を食べることであり、これはみな、わたしたちの食物としてのキリストのさまざまな面の予表です。召会の堕落は、神の民がキリストを彼らの食物として食べることから、知識のための教理の教えにそらすことです。召会の堕落の中には、バラムの教え(14節)、ニコライの者たちの教え(15節)、イゼベルの教え(20節)、サタンの深い事柄の教え(24節)があります。今、主はこれらの手紙で、わたしたちの食物の供給として彼ご自身を正しく食べることを、回復しに来られたのです。わたしたちは彼を命の木として、隠されたマナとしてだけでなく、また豊富に満ちたごちそうとして、食べなければなりません。
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