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出典

フットノート

啓示録 3:16 注1 主の口から吐き出されるとは、主によって拒絶され、主が彼の召会に対してであるすべての享受を失うことです。
啓示録 3:17 注1 後退した回復の召会は、自分の富(おもに教理上の知識)を誇っています。自分は命において貧しく、視力では盲目であり、行ないでは裸であることを知りません。ですから、次の節で述べられているように、召会は富むために金を買い、裸を覆う白い衣を買い、盲目をいやす目薬を買う必要があります。
啓示録 3:17 注2 主の目に後退した回復の召会は、(1) 悩んでいる。なぜなら、召会は教理のむなしい知識において豊かであると誇っていますが、実際にはキリストの豊かさの経験に全く貧しいからです。(2) みじめである。なぜなら召会は裸であり、盲目で、恥と暗やみに満ちているからです。(3) 貧しい。なぜなら召会はキリストの経験に貧しく、神のエコノミーの霊的実際に貧しいからです。(4) 盲目である。なぜなら、召会は真の霊的事柄における真の霊的洞察力に不足しているからです。(5) 裸である。なぜなら、召会はキリストによって生きず、主観的な義としての、日ごとの歩みにおける第二の衣としてのキリストを生きないからです。
啓示録 3:18 注2 聖書では、わたしたちの活動し働く信仰(ガラテヤ5:6)を金にたとえており(Iペテロ1:7)、神の神聖な性質、すなわちキリストの神性は、金で予表されています(出25:11)。わたしたちは、信仰によって神の神聖な性質にあずかります(IIペテロ1:1,4―5)。後退した回復の召会には、キリストに関する教理の知識がありますが、キリストの神聖な要素にあずかるための生きた信仰を、あまり持っていません。召会は代価を払って、火のような試練を経た金の信仰を得る必要があります。それは、実際の金、すなわち、キリストのからだにとって命の要素であるキリストご自身にあずかるためです。こうして、召会は金の新エルサレムの建造のために(21:18)、金の燭台(1:20)となるでしょう。
啓示録 3:18 注1 買うためには、代価を払う必要があります。後退した回復の召会は、極度に必要としている金と白い衣と目薬を、代価を払って買う必要があります。
啓示録 3:18 注3 予表では、衣は行為を象徴します。ここの白い衣は、主に良しとされる行為を象徴します。そのような行為は、召会から生かし出された主ご自身であり、それは後退した回復の召会が、裸を覆うために必要とします。
啓示録 3:18 注4 目に塗るのに必要な目薬とは、油塗りの霊であるはずです(Iヨハネ2:27)。油塗る霊は、命を与える霊としての主ご自身です(Iコリント15:45)。後退した回復の召会は、盲目をいやすために、このような目薬を必要とします。この節の三つのもののために、召会は代価を払わなければなりません。
啓示録 3:19 注1 文字どおりには、沸騰していなさい。死んだむなしい知識と教理的儀式は、後退した回復の召会をなまぬるくします。召会はなまぬるさを悔い改め、熱心で、沸騰し、燃えている必要があります。そのようにして、召会はキリストの実際の享受を取り戻すことができるでしょう。
啓示録 3:20 注1 この戸口は個人の心の戸ではなく、召会の戸です。主は召会のかしらとして、堕落した召会の外に立ち、戸をたたいておられます。後退した回復の召会は、これを認識しなければなりません!
啓示録 3:20 注2 その戸は召会の戸です。しかし戸は、個人の信者によって開けられます。ラオデキヤに在る召会には知識はありますが、主の臨在がありません。主は全召会を取り扱っておられます。しかし、主の取り扱いを受け入れるのは、個人の事でなければなりません。主の取り扱いは客観的ですが、信者が受け入れることは、主観的でなければなりません。
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