マタイによる福音書とヨハネによる福音書の二冊は、神聖な三一が聖書の他のいずれの書物よりも完全に啓示されています。それは、神の選びの民が彼にあずかり、享受するためです。ヨハネは、父と子と霊における神たる方の奥義を、特に第14章から第16章で、わたしたちの命の経験のために啓示しています。マタイは、王国の設立のために、三のすべてに対する一つの名を与えることによって、神聖な三一の実際を明らかにしています。マタイの開始の章で、聖霊(1:18)、キリスト(御子―1:18)、神(御父―1:23)が、人なるイエスを生み出すために(1:21)登場します。この方はエホバ救い主、神われらと共にいます方として、まさしく三一の神の化身です。第3章でマタイは開かれた天の下で、バプテスマの水の中に立つ御子、御子の上に下るはととしてのその霊、天から御子に語りかける御父という絵を提示します(3:16―17)。第12章では、御子は人のパースンの中で、御父の王国をもたらすために、その霊によって悪鬼どもを追い出されました(12:28)。第16章では、王国の命脈である召会の建造のために、御父は御子を弟子たちに啓示されました(16:16―19)。第17章では、御子は変貌されましたが(17:2)、それは王国の出現の縮図の展覧であることが(16:28)、御父の喜びの言葉(17:5)によって確認されました。最後に終わりの章では、キリストが、最後のアダムとして、十字架の手順を経過し、復活の領域の中に入り、命を与える霊と成った後、復活の雰囲気と実際の中で、弟子たちの所に戻って来て、異教徒を神聖な三一の名、パースン、実際の中へとバプテスマすることによって、王国の民とするようにと彼らに命じられました。その後、使徒行伝と書簡で、人々を父と子と霊の名の中へとバプテスマすることは、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることであり(使徒8:16.19:5)、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることは、キリストのパースンの中へとバプテスマすることであると(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)示されています。なぜなら、キリストは三一の神の化身であり、命を与える霊と成って(Iコリント15:45)、どんな時どんな場所でも、人々が彼の中へとバプテスマされるのに便利な方であることが、明らかにされているからです。父と子と霊の実際の中へとバプテスマされることは、マタイによれば、天の王国の設立のためです。地的社会と異なって、天的王国は、肉と血から成る人で組織されることはあり得ません(Iコリント15:50)。それは、三一の神との結合の中へと浸し込まれ、彼らの中へ造り込まれた三一の神で、確立され建造されている人々によってのみ、構成され得るのです。
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