信じること(参照,1:15のノート3)は、奴隷―救い主を受け入れることであり(ヨハネ1:12)、これは罪の赦しのためだけでなく(使徒10:43)、再生のためでもあります(Iペテロ1:21,23)。信じた者たちは、三一の神との有機的な結合の中で(マタイ28:19)、神の子供たち(ヨハネ1:12―13)、キリストの肢体となります(エペソ5:30)。バプテスマされることは、奴隷―救い主の死を通して葬られ、旧創造を終わらせることによって、また、奴隷―救い主の復活を通して復活させられ、神の新創造となることによって、これを確認することです。そのようなバプテスマは、ヨハネによる悔い改めのバプテスマよりはるかに進んでいます(1:4.使徒19:3―5)。信じることとバプテスマされることは、神の全き救いを受けるための、一つの完全な段階の二つの部分です。信じないでバプテスマされることは、単にむなしい儀式にすぎません。また信じてもバプテスマされないなら、内側で救われるだけで、外側の確証がありません。これら二つは並行すべきです。さらに、水のバプテスマには、霊のバプテスマが伴うべきです。それは、イスラエルの子たちが、海(水)の中と雲(その霊)の中でバプテスマされたようにです(Iコリント10:2.12:13)。
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