ヨハネ  1章14節
1:14 そして12肉体と成って、わたしたちの間に3幕屋を張られた.4わたしたちはの栄光を見た.それは、5からのひとり子としての栄光であって、6恵みと実際に満ちていた。
1章14節 フットノート2

ローマ人への手紙第8章3節(ローマ8:3)は、この肉体が罪の肉であるとはいえ、ただ罪の肉の様があるだけで、肉の罪がないことを示しています。それは、そのような肉体と成った言であり、この言は神、三一の神全体でした(1節)。言が肉体と成ったとは、三一の神が肉体を持つ人となり、罪のある人の様となられたことを意味します。こうして、神は罪のある人の中に入って、罪のある人と一つになられました。しかしながら、彼には罪のある人の様があるだけで、罪のある人の罪はありませんでした。ですから、彼は罪のない神・人、神全体と完全な人であり、二つの性質、神の性質と人の性質を持っておられました。彼の二つの性質は混ざり合って、神・人を生み出しましたが、二つの性質の個々の特徴は、区別のあるままです。二つの性質が混合して、第三の性質を生み出したのではありません。そうではなく、神の性質は人の性質の中に存続し、人の性質を通して表現され、恵みに満ちていました。恵みとは、人によって享受された神であり、実際は、人によって獲得された神です。このようにして、見えない神は表現されました。それは、彼を命として獲得し、享受して、彼の新約エコノミーを成就するためです。
 神が肉体と成られたことは、当時のグノーシス主義の教えに反するものでした。グノーシス主義者たちは、肉体は邪悪なものなので、純粋な神が邪悪な肉体とは決して結合され得ないと主張しました。グノーシス派の教えを根拠にして、ドケチスト(仮現論者)は、キリストが肉体をもって来られたことを否定しました(Iヨハネ4:2)。ヨハネがこの福音書を書いたのは、ある面で、ドケチストの異端に反対し、神・人であるキリストが真に肉体と成られた神である(ただ罪の肉の様を持っておられるだけで、肉の罪ではない)ことを、強く証明するためでした。この肉体を通して、キリストは一方で悪魔を滅ぼし(ヘブル2:14)、人の罪を取り除くためであり(ヘブル9:26)、もう一方では、神が人と結合され、人性を通して神が表現されて、神の栄光の目的、神が過去の永遠に計画し永遠の未来にわたる目的が成就されるためです。
 ヨハネによる福音書の深遠な思想は、受肉した神であるキリストが、神の化身として来られたことです。このことは、幕屋(14節)と宮(2:21)で例証されています。それは、人が神に触れ、神の中に入って、神の中にある豊富を享受するためです。幕屋にも宮にも、外庭と聖所と至聖所があります。ですからヨハネは、まずキリストが、幕屋の外庭の、十字架を象徴する祭壇の上でささげられた小羊(罪を取り除く―29節)であり、次に彼が、十字架を象徴するさおに上げられた青銅の蛇(人に命を得させる―3:14)であることを、指摘しました。これは、キリストがどのように彼の贖いの中で信じる者を受け入れ、彼らを罪から解放し、命を得させるか、またどのように彼らを幕屋で予表される神の化身としての彼の中に入らせ、神の中にある豊富のいっさいを享受させるかを見せています。第13章の足洗いは、幕屋の外庭にある洗盤で洗うことと見てもよいでしょう。これは、神に近づく者が、地上の汚れを洗い去るもので、こうして神との交わり、また相互間の交わりが維持されます。第14章では、キリストを受け入れた者が、彼によって聖所にもたらされ、彼を経験します。ここではパンの机で象徴される命のパンとして(6:35)、また燭台で象徴される命の光として(8:129:5)、キリストを経験します。ついに第17章では、金の香壇でたく香で予表される最高の、最も奥義的な祈りを通して、命と光であるキリストを享受する者たちは、彼によって至聖所にもたらされ、彼と共に神の最も深い享受に入り、神がキリストに与えられた栄光を享受します(17:22―24)。


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