「聖書を調べ」ることと、「わたしに来」る(40節)ことは、分けて考えられます。ユダヤ人の宗教家たちは聖書を調べましたが、進んで主に来ようとはしませんでした。この二つを一緒にすべきです。聖書は主について証しをしていますから、聖書と主を引き離してはなりません。わたしたちは聖書に触れても、主に触れないかもしれません。主だけが、命を与えることができるのです。