人が堕落してエデンの園から追い出された後(創3:23)、神は彼の経綸において、人が自分の良心に責任を持つことを願われました。しかし人は、その良心にしたがって生き、歩むことに失敗して、さらに悪へと落ち込みました(創6:5)。洪水の裁きの後、神は人が人の統治の下にいるように定められました(創9:6)。人はこのことにも失敗しました。そこで、アブラハムの子孫、キリストの中で諸国民を祝福するというアブラハムに対する約束を果たす前に(創12:3.ガラテヤ3:8)、神は人を律法のテストの下に置かれました(ローマ3:20.5:20)。人はこのテストに完全に落第しました。これらすべての失敗は、人が神から人の良心へ、人の良心から人の統治へ、さらに人の統治から不法へと堕落したこと、すなわち、人が究極まで堕落したことを示します。ですからパウロのように、神の御前で完全な正しい良心の中で振る舞うことは、人の堕落から神への一大転換でした。パウロは、彼を不法で向こう見ずな者であるとまで訴えた人たちの前で、この言葉を語って自分を擁護しました。彼は第24章16節(24:16)でもう一度、弁明の中で彼の良心に言及しました。これは、偽善的なユダヤの宗教家と曲がったローマ人(異邦人)の政治家とは対照的に、パウロが高い水準の道徳にあることを示しました。この章の12節(12節)のノート1、第24章2節(24:2)のノート1、24節(24:24)のノート1、26節(24:26)のノート1、27節(24:27)のノート3、第25章9節(25:9)のノート1、13節(25:13)のノート2を参照。
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