「もはやわたしではありません」とは、キリストが入ってきてわたしたちが出ていくという、交換された命を示すのではありません。この節の後半でパウロは、「わたしは・・・・生きている」と言いました。わたしたち再生された人には、古い「わたし」と新しい「わたし」があります。古い「わたし」は、すでに十字架につけられ(ローマ6:6)、「もはやわたしではない」とパウロが言うものです。新しい「わたし」は、「わたしは・・・・生きている」とパウロが言うものです。古い、終わらせられた「わたし」には、神性はありません。新しい「わたし」には、神が命として加えられています。古い「わたし」が復活し、神がそれに加えられて、新しい「わたし」となりました。一方で、パウロは終わらせられました。もう一方で、復活したパウロ、命としての神で再生されたパウロは、なおも生きていました。さらにパウロは、「もはやわたしではありません」と言いましたが、「キリストがわたしの中に生きておられるのです」とも言いました。生きているのはキリストでしたが、しかも彼は、パウロの中に生きておられました。この両者、キリストとパウロは、一つの命、一つの生活を持っていました。
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