この章の文脈によれば、ここのその霊は、聖霊であるに違いありません。この聖霊は、わたしたちの再生された霊の中に住んで、それと混ざり合われます。その霊によって歩くとは、わたしたちの歩みが、わたしたちの霊の内側から、聖霊によって規制されることです。これは、わたしたちの歩みが、肉の領域で、律法によって規制されることと対比しています。第3章3節(3:3)のノート2を参照。 肉は、堕落した三部分から成る人の極限的表現です(創6:3)。その霊は、手順を経た三一の神の究極的実際化です(ヨハネ7:39)。キリストの贖いとその霊の再生する働きのゆえに、神の分与を受けたわたしたちは、肉によって、わたしたちの堕落した人によってではなく、その霊によって、手順を経た三一の神によって、歩くことができます。パウロが本書を書いたのは、消極面で、そらされたガラテヤの信者たちを律法から救い出し、さらに積極面で、信者たちがすべてを含む、命を与える霊を彼らの霊の中に持っていることを認識させ、彼らがこの霊の中で生き、歩き、行動するためです。
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