召会の中に生きておられる生ける神は、召会に対して客観的でなく、主観的でなければなりません。異教の宮にある偶像には命はありません。神は生きておられます。彼は、生ける宮、召会の中で生きておられるだけでなく、活動し、行動し、働いておられます。彼が生きておられるので、召会も彼の中で、彼によって、彼と共に生きています。生ける神と生ける召会は、共に生き、行動し、働きます。生ける召会は、生ける神の家、家庭です。ですから、それは肉体における神の現れとなるのです。