信仰によって義とされることは、神聖な命を受けるためです(ローマ5:18)。行ないによって義とされることは、神聖な命を生きることを通してです。生活は命の結果ですから、行ないによって義とされることは、信仰によって義とされた結果です。アブラハムがイサクをささげたことと、ラハブが使者たちを受け入れ、また彼らを送り出したことは両方とも、彼らの生きた信仰から出てきた行ないです。生きている木は、確かに実をもたらします。行ないによって義とされることは、信仰によって義とされることと矛盾しません。後者は原因であり、それは前者をもたらします。前者は効果であり、後者の結果と証明です。 この章は、人を分け隔てしないことで始まり(1―13節)、貧しい聖徒たちの必要を実際的に顧みることに行き着きます。それは信仰の義とする働きです(14―26節)。これらの美徳はみな、ヤコブの観点によると、クリスチャンの実行上の完成の特徴と考えられます。
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