1ヨハ  1章6節
1:6 もし、わたしたちが21交わりを持っていると言いながら、暗やみの中を3歩いているなら、わたしたちは4偽っているのであって、6真理を5行なってはいません.
1章6節 フットノート6

ギリシャ語は、「実際」(虚栄と反対の意味)、「確実」、「純正」、「真実」、「誠実」。これはヨハネ特有の特徴的な言葉で、新約聖書の深遠な言葉の一つです。それは、神聖な啓示の内容である神聖なエコノミーのすべての実際を示し、下記のような聖なる言によって伝達され、明らかにされます。
 (1) 神。彼は光と愛でもあり、受肉して神聖な事柄の実際となられました。神聖な事柄とは、神聖な命、神聖な性質、神聖な力、神聖な栄光などです。これらはみな、わたしたちの所有となり、その結果わたしたちは神を恵みとして享受することができます。これは、ヨハネによる福音書に啓示されています(ヨハネ1:1,4,14―17)。
 (2) キリスト。彼は受肉した神であり、彼の中には神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいます(コロサイ2:9)。彼は以下のものの実際です。(a)神と人(ヨハネ1:18,51Iテモテ2:5)。(b)旧約のすべての予表、型、影(コロサイ2:16―17.ヨハネ4:23,24とノート)。(c)すべての神聖で霊的な事柄、すなわち、神聖な命と復活(ヨハネ11:2514:6)、神聖な光(ヨハネ8:129:5)、神聖な道(ヨハネ14:6)、知恵、義、聖別、贖い(Iコリント1:30)など。ですから、キリストは実際です(ヨハネ14:6エペソ4:21)。
 (3) その霊。その霊は変貌したキリストであり(Iコリント15:45後半.IIコリント3:17)、キリストの実際(ヨハネ14:16―1715:26)、神聖な啓示の実際です(ヨハネ16:13―15)。ですから、その霊は実際です(5:6)。
 (4) 神の言。それは神聖な啓示であり、神とキリストの実際とすべての神聖で霊的な事柄の実際を啓示し、伝達します。ですから、神の言も実際です(ヨハネ17:17とノート3)。
 (5) その信仰(信じること)の内容、それは、わたしたちが信じているものの実質的要素であり、全き福音の実際となったものです(エペソ1:13コロサイ1:5)。これは新約の全体で啓示されています(IIコリント4:2.13:8.ガラテヤ5:7.Iテモテ1:1,ノート1,要点1と2.2:4とノート2.2:7後半.3:15とノート5.4:3.6:5.IIテモテ2:15,18,25.3:7,8.4:4.テトス1:1,14.IIテサロニケ2:10,12.ヘブル10:26.ヤコブ5:19.Iペテロ1:22.IIペテロ1:12)。
 (6) 神、宇宙、人、人と神との関係、人の互いの関係、神に対する人の責任に関する実際。これは、創造と聖書を通して啓示されています(ローマ1:18―202:2,8,20)。
 (7) 真実、信用、誠実、正直、信頼、信実。これらは神に関しては神聖な美徳であり(ローマ3:715:8)、人に関しては人の美徳であり(マルコ12:14IIコリント11:10ピリピ1:18Iヨハネ3:18)、神聖な実際の結果です(ヨハネ4:23―24IIヨハネ1:1前半.IIIヨハネ1:1)。
 (8) 実在、あるいは現実である事柄。出来事(事実)の、実際の、現実の状態、実際、誠実であり、虚偽、欺まん、偽装、偽善、誤びゅうの反対です(マルコ5:3312:32ルカ4:25ヨハネ16:7使徒4:2710:3426:25ローマ1:259:1IIコリント6:77:1412:6コロサイ1:6Iテモテ2:7前半)。
 以上、列記した八つの要点のうち、最初の五つは本質的に同じ実際を言っています。神、キリスト、その霊―神聖な三一は、本質的に一です。ですから、これらの三は、神聖な実際の実体の基本的要素であり、一つの実際です。この一つの神聖な実際は、神聖な啓示としての神の言の実体です。ですから、それは神聖な言の中で啓示された神聖な実際となり、神聖な言を実際にします。神聖な言は、この一つの神聖な実際を、その信仰の内容として伝達します。その信仰の内容は、新約全体の中にその実際として啓示された福音の実体です。この実際は、神聖な三一の神聖な実際です。わたしたちがこの神聖な実際にあずかり享受する時、それはわたしたちの真実、誠実、正直、信頼となります。これらは、わたしたちの振る舞いにおける卓越した美徳です。神聖な実際がわたしたちの美徳となった結果、わたしたちは実際の神によって生き、彼を表現することができます。そして、何の虚偽や偽善もなく、創造と聖書を通して啓示された真理と一致する命、真理の命を生きる者となります。
 「真理」という言葉は、新約では百回以上使われています。それぞれの場合の意味は、文脈によって判断されます。例えば、ヨハネによる福音書第3章21節(ヨハネ3:21)では、文脈によれば、正しさ(邪悪の反対―ヨハネ3:19―20)を示します。それは、神にしたがって神の中で生きる人において現される実際です。それはまたキリストにおいて現された、真理の源である神聖な光、すなわち神と一致します。ヨハネによる福音書第4章23節から24節(ヨハネ4:23―24)では、この章の文脈とヨハネによる福音書の啓示全体によれば、神の真の礼拝への人の真実と誠実(不道徳なサマリヤの礼拝者の偽善と反対―ヨハネ4:16―18)となる神聖な実際を示します。神聖な実際はキリストです。キリストは実際であり(ヨハネ14:6)、神への礼拝のための旧約のすべてのささげ物の実際であり(ヨハネ1:293:14)、生ける水の泉、命を与える霊であり(ヨハネ4:7―15)、彼の信者たちにあずからせ飲ませて、彼らの内側で実際となり、最終的に彼らの真実と誠実となり、その中で彼らは、神が求められる礼拝をもって神を礼拝します。ヨハネによる福音書第5章33節(ヨハネ5:33)と第18章37節(ヨハネ18:37)で、この福音書全体の啓示によれば、「真理」は神の御子キリストの中に化身され、啓示され、表現された神聖な実際を示します。ヨハネによる福音書第8章32(ヨハネ8:32)、40(ヨハネ8:40)、44から46節(ヨハネ8:44―46)で、この章の文脈によれば、それは神の言の中に啓示された神の実際(ヨハネ8:47)、神の御子キリストの中に化身された神の実際(ヨハネ8:36)を示します。この実際は、わたしたちを罪の束縛から解放します(参照,ヨハネ8:32のノート1)。
 ここの6節では、「真理」は神聖な光のこの面で啓示された神の実際を示します。それは5節(5節)の神聖な光から出て来たもの、その実際化です。神聖な光は神における源です。真理はわたしたちにおける神聖な光から出て来たもの、実際化です(参照,4:8のノート2.比較,ヨハネ3:19―21)。わたしたちは、神聖な命の交わりの中で享受する神聖な光の中に住む時、その真理―神聖な光の中でわたしたちが認識したものを実行します。わたしたちがその源に住む時、その結果はわたしたちの実行となります。


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