その戸は召会の戸です。しかし戸は、個人の信者によって開けられます。ラオデキヤに在る召会には知識はありますが、主の臨在がありません。主は全召会を取り扱っておられます。しかし、主の取り扱いを受け入れるのは、個人の事でなければなりません。主の取り扱いは客観的ですが、信者が受け入れることは、主観的でなければなりません。