出典 |
フットノート |
マタイ 28:19 注1 |
いっさいの権威が彼に与えられているので(18節)、天の王は彼の弟子たちに、すべての国民を弟子とするために遣わされました。弟子たちは彼の権威をもって行きます。 |
マタイ 28:19 注2 |
これは、彼の王国の設立のために、異教徒を王国の民とすることです。その王国とは今日、この地上における召会です。 |
マタイ 28:19 注6 |
マタイによる福音書とヨハネによる福音書の二冊は、神聖な三一が聖書の他のいずれの書物よりも完全に啓示されています。それは、神の選びの民が彼にあずかり、享受するためです。ヨハネは、父と子と霊における神たる方の奥義を、特に第14章から第16章で、わたしたちの命の経験のために啓示しています。マタイは、王国の設立のために、三のすべてに対する一つの名を与えることによって、神聖な三一の実際を明らかにしています。マタイの開始の章で、聖霊(1:18)、キリスト(御子―1:18)、神(御父―1:23)が、人なるイエスを生み出すために(1:21)登場します。この方はエホバ救い主、神われらと共にいます方として、まさしく三一の神の化身です。第3章でマタイは開かれた天の下で、バプテスマの水の中に立つ御子、御子の上に下るはととしてのその霊、天から御子に語りかける御父という絵を提示します(3:16―17)。第12章では、御子は人のパースンの中で、御父の王国をもたらすために、その霊によって悪鬼どもを追い出されました(12:28)。第16章では、王国の命脈である召会の建造のために、御父は御子を弟子たちに啓示されました(16:16―19)。第17章では、御子は変貌されましたが(17:2)、それは王国の出現の縮図の展覧であることが(16:28)、御父の喜びの言葉(17:5)によって確認されました。最後に終わりの章では、キリストが、最後のアダムとして、十字架の手順を経過し、復活の領域の中に入り、命を与える霊と成った後、復活の雰囲気と実際の中で、弟子たちの所に戻って来て、異教徒を神聖な三一の名、パースン、実際の中へとバプテスマすることによって、王国の民とするようにと彼らに命じられました。その後、使徒行伝と書簡で、人々を父と子と霊の名の中へとバプテスマすることは、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることであり(使徒8:16.19:5)、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることは、キリストのパースンの中へとバプテスマすることであると(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)示されています。なぜなら、キリストは三一の神の化身であり、命を与える霊と成って(Iコリント15:45)、どんな時どんな場所でも、人々が彼の中へとバプテスマされるのに便利な方であることが、明らかにされているからです。父と子と霊の実際の中へとバプテスマされることは、マタイによれば、天の王国の設立のためです。地的社会と異なって、天的王国は、肉と血から成る人で組織されることはあり得ません(Iコリント15:50)。それは、三一の神との結合の中へと浸し込まれ、彼らの中へ造り込まれた三一の神で、確立され建造されている人々によってのみ、構成され得るのです。 |
マタイ 28:19 注5 |
神聖な三一に対して一つの名があります。その名は神聖な方の総合計であり、彼のパースンに等しいです。だれかを三一の名の中へとバプテスマするとは、彼を三一の神のすべての中に浸し込むことです。 |
マタイ 28:19 注4 |
「中へと」は、ローマ第6章3節(ローマ6:3)、ガラテヤ第3章27節(ガラテヤ3:27)でのように、結合を示します。同じギリシャ語が、使徒8:16、19:5、Iコリント1:13、15で用いられています。人々を三一の神の名の中へとバプテスマするとは、彼らを彼との霊的で奥義的な結合の中へもたらすことです。 |
マタイ 28:19 注3 |
バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらすことであり、彼らの古い命を終わらせて、キリストの新しい命を彼らに発芽させることによって、彼らが王国の民となるためです。バプテスマのヨハネの推薦の務めは、水だけによる準備のバプテスマで始まりました。今や、天の王が彼の務めを地上で成し遂げた後、死と復活の手順を経過し、命を与える霊と成って、弟子となった人たちを、三一の神の中へとバプテスマするよう弟子たちに命じられました。このバプテスマには二つの面、水による目に見える面と、聖霊による目に見えない面があります(使徒2:38,41.10:44―48)。見える面は見えない面の表現、証しであり、見えない面は見える面の実際です。その霊による見えないバプテスマがなければ、水による見えるバプテスマはむなしいです。また水による見える面がなければ、その霊による見えない面は抽象的であり、実際的ではありません。両方とも必要です。主は弟子たちにこのバプテスマを命じた後、間もなく、彼らと全召会を、聖霊の中にバプテスマされました(Iコリント12:13)。ユダヤ人の部分はペンテコステの日に(使徒1:5.2:4)、異邦人の部分はコルネリオの家でです(使徒11:15―17)。それから、これに基づいて、弟子たちは新しく悔い改めた者たちをバプテスマしました(使徒2:38)。それは水の中にだけでなく、キリストの死の中へと(ローマ6:3―4)、キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)、三一の神の中へと(19節)、キリストのからだの中へと(Iコリント12:13)です。キリストの死と埋葬を象徴する水は、バプテスマされる者の古い歴史を終わらせる墓と考えられます。キリストの死がキリストの中に含まれており、キリストはまさに三一の神の化身であり(コロサイ2:9)、三一の神は結局キリストのからだと一つであるのですから、新しい信者たちをキリストの死の中へと、キリストご自身の中へと、三一の神の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマすることは、まさに一つの事を行なうことです。すなわち、消極面では彼らの古い命を終わらせることであり、積極面ではキリストのからだのために、彼らを新しい命、三一の神の永遠の命をもって発芽させることです。ですから、ここで主によって定められたバプテスマは、人々を彼らの命から、天の王国のために、からだの命の中へとバプテスマすることです。 |
マタイ 28:20 注1 |
前の節で人々を父と子と霊の名の中へとバプテスマすることと同じく、主が命じておかれたことを、すべて守るように信者に教えることは、すべての国民を弟子とするためです(19節)。 |
マタイ 28:20 注3 |
この時代の終わり、すなわち彼の到来(パルーシア)の時。 |
マタイ 28:20 注2 |
天の王はインマヌエル、われらと共にいます神です(1:23)。ここで彼は、復活の中でいっさいの権威をもって、この時代の満了まで、すなわち、この時代の終わりまで、日々、わたしたちと共にいることを約束されました。ですから、わたしたちが彼の御名の中へと集められる所はどこであれ、彼はわたしたちの中におられるのです(18:20)。 四福音書で、主の昇天は、マルコによる福音書(マルコ16:19)とルカによる福音書(ルカ24:51)にだけ記録されています。ヨハネは主が神の子として、すなわち神ご自身として、彼の信者たちの命であることを証ししています。そのような方として、彼は決して彼らから離れることはできませんし、また離れようとはされません。マタイは、彼がインマヌエルとして、戻って来る時まで絶えず、その民と共におられる天の王であることを証明します。ですから、ヨハネによる福音書とマタイによる福音書で、主の昇天は述べられていません。 |
マルコ 1:1 注4 |
幾つかの写本は、神の子、を省いています。 |