出典 |
フットノート |
マルコ 1:8 注1 |
水は、悔い改める人々を終わらせるための、死と葬りを象徴します。聖霊は、終わらせられた人々を発芽させる、命と復活の霊です。前者は、ヨハネの悔い改めの務めのしるしです。後者は、奴隷―救い主の命の務めのしるしです。ヨハネは、悔い改める人々を死の水の中へ葬りました。奴隷―救い主は、人々を復活させ、彼の復活の命の霊の中で再生しました。死の水は、キリストのすべてを含む死を示し、象徴しています。彼の信者たちは、その死の中へとバプテスマされます(ローマ6:3)。死の水は、バプテスマされる人だけでなく、彼らの罪、この世、過去の生活、歴史をも葬りました(紅海がイスラエルの子たちのために、パロとエジプトの軍隊を葬ったように―出14:26―28.Iコリント10:2)。また彼らを、神が見捨てた世とその腐敗から分離しました(洪水がノアとその家族のために行なったように―Iペテロ3:20―21)。奴隷―救い主が自分を信じた人々をバプテスマし込んだ聖霊は、キリストの霊であり、神の霊です(ローマ8:9)。ですから、聖霊の中にバプテスマされるとは、キリストの中へと(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)、三一の神の中へと(マタイ28:19)、さらにキリストのからだの中へと(Iコリント12:13)バプテスマされることです。このからだは、一つの霊の中でキリストに結合されています(Iコリント6:17)。キリストにある信者たちが神の王国の中へと再生され(ヨハネ3:3,5と5節のノート2)、神聖な命と神聖な支配の領域の中へと入るのは、そのような水の中の、また霊の中のバプテスマを通してです。それは、彼らがキリストの永遠の王国で、神の永遠の命によって生きるためです。 |
マルコ 1:8 注1 |
水は、悔い改める人々を終わらせるための、死と葬りを象徴します。聖霊は、終わらせられた人々を発芽させる、命と復活の霊です。前者は、ヨハネの悔い改めの務めのしるしです。後者は、奴隷―救い主の命の務めのしるしです。ヨハネは、悔い改める人々を死の水の中へ葬りました。奴隷―救い主は、人々を復活させ、彼の復活の命の霊の中で再生しました。死の水は、キリストのすべてを含む死を示し、象徴しています。彼の信者たちは、その死の中へとバプテスマされます(ローマ6:3)。死の水は、バプテスマされる人だけでなく、彼らの罪、この世、過去の生活、歴史をも葬りました(紅海がイスラエルの子たちのために、パロとエジプトの軍隊を葬ったように―出14:26―28.Iコリント10:2)。また彼らを、神が見捨てた世とその腐敗から分離しました(洪水がノアとその家族のために行なったように―Iペテロ3:20―21)。奴隷―救い主が自分を信じた人々をバプテスマし込んだ聖霊は、キリストの霊であり、神の霊です(ローマ8:9)。ですから、聖霊の中にバプテスマされるとは、キリストの中へと(ガラテヤ3:27.ローマ6:3)、三一の神の中へと(マタイ28:19)、さらにキリストのからだの中へと(Iコリント12:13)バプテスマされることです。このからだは、一つの霊の中でキリストに結合されています(Iコリント6:17)。キリストにある信者たちが神の王国の中へと再生され(ヨハネ3:3,5と5節のノート2)、神聖な命と神聖な支配の領域の中へと入るのは、そのような水の中の、また霊の中のバプテスマを通してです。それは、彼らがキリストの永遠の王国で、神の永遠の命によって生きるためです。 |
マルコ 1:9 注1 |
ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、誉れのない地方でした。ですから、卑しめられた地域でした(ヨハネ7:52.参照,マタイ4:15のノート1)。そしてナザレは、このさげすまれた地方にある卑しめられた町でした(ヨハネ1:46)。へりくだった神の奴隷は、この土地で成長し、ここから現れました。 |
マルコ 1:9 注3 |
文字どおりには、ヨルダン川の中へと。 |
マルコ 1:9 注2 |
神の奴隷として、奴隷―救い主もバプテスマされました。これは、彼が自ら進んで神に仕えようとしていたこと、また、天然の方法でではなく、死と復活を通して仕えようとしておられたことを示しています(参照,マタイ3:13のノート1と3:16のノート1)。そのようなバプテスマが、彼の奉仕の開始でした。 |
マルコ 1:10 注1 |
この奴隷に対するマルコの記録は、この奴隷のパースンの身分の輝かしさを表しているのではなく、彼の奉仕の勤勉さを表しています。「直ちに」という言葉が彼の記録の中に四十二回、ある写本ではさらにもう一回使われています。この回復訳では、直ちに、すぐに、すぐ、たちまち、たちどころに、と訳されています。 |
マルコ 1:10 注2 |
天が奴隷―救い主に対して開かれているとは、救い主がご自身を奴隷として自ら進んで神にささげられたのを、神が満足して受け入れられたことを示しています。その霊がはととして彼に下ったことは、奴隷―救い主の奉仕のために、神がその霊をもって彼を油塗られたことを表します(ルカ4:18―19)。 |
マルコ 1:10 注3 |
マタイ第3章16節(マタイ3:16)のノート4を参照。 |
マルコ 1:10 注4 |
幾つかの写本は、そしてとどまる、を加えています。 |
マルコ 1:11 注1 |
マタイ第3章17節(マタイ3:17)のノート1を参照。 |