出典 |
フットノート |
マルコ 1:38 注2 |
奴隷―救い主は、神に仕える奴隷として、彼の福音において、彼自身の意志でも人人の提案でもなく、彼を遣わされた神のみこころを遂行されました(ヨハネ6:38.4:34)。 |
マルコ 1:40 注1 |
らい病の人は、典型的な罪人を描写します。らい病は熱病(30節)よりもはるかに深刻で、最も人を汚し、害を与える病であり、それにかかった者を、神と人の両方から隔離します(参照,マタイ8:2のノート1と8:3のノート1)。らい病の人を清めることは、罪人が神と人との交わりを持てるように回復することを象徴します。これは、この章の記録によれば、奴隷―救い主の福音奉仕の完成する部分でした。 神に対する奴隷―救い主の福音奉仕は、次のもので構成されています。(1) 宣べ伝えて(14―15,38―39節)、束縛の中にあるみじめな人々に喜ばしいおとずれを告げ知らせる。(2)教えて(21―22節)、暗やみの中の無知な人々を真理の神聖な光で照らす。(3) 悪鬼どもを追い出して(25―26節)、サタンが人を横領することを終わらせる。(4) 人の病状をいやして(30―31節)、人が奴隷―救い主に仕えることができるようにする。(5) らい病の人を清めて(41―42節)、罪人を神と人との交わりに回復する。何とすばらしい、卓越した働きでしょう! |
マルコ 1:41 注1 |
奴隷―救い主のあわれみと良しとすることは、彼の愛から生じました。これは、望みのないらい病の人にとって、親切で尊いものでした。 |
マルコ 1:41 注2 |
だれも触れようとしなかったみじめならい病の人に対する彼の同情と親密さを見せています。 |
マルコ 1:41 注1 |
奴隷―救い主のあわれみと良しとすることは、彼の愛から生じました。これは、望みのないらい病の人にとって、親切で尊いものでした。 |
マルコ 1:41 注3 |
いやされただけでなく(参照,31節のノート1)、清められました。らい病は他の病と同様に、いやしを必要とします。そして罪と同様に、その汚れた汚染する性質のために、清めも必要とします(Iヨハネ1:7)。 |
マルコ 1:44 注1 |
奴隷―救い主の福音の奉仕の記録に、至る所で見られるこのような命令は、極めて著しいものです(5:43.7:36.9:9)。それは、イザヤ書第42章2節(イザヤ42:2)で、彼の穏やかな人格について預言されたことと似ています。彼は、人の興奮や宣伝によって奨励されてではなく、神の目的に絶対的にしたがった動きの範囲内で、彼の働きが成されることを望まれました。第8章26節(8:26)のノート1を参照。 |
マルコ 1:45 注1 |
文字どおりには、言葉。 |
マルコ 1:45 注2 |
天然の観念にしたがった人の活動は、神の目的にしたがった奴隷―救い主の奉仕を妨げます。 |
マルコ 2:1 注1 |
第2章1節から第3章6節(2:1、3:6)で生き生きと記録された五つの出来事は、一つの特別なグループを形成しています。それは、神の奴隷としての奴隷―救い主が、いかに彼の福音の奉仕を遂行して、堕落した人々、すなわち、神と神の享受からサタンによって捕らえられた人々の必要を顧みられたかを見せています。それは、彼らが捕囚から救い出されて、神の享受に連れ戻されるためでした。 (1) 彼は神聖な権威を持つ神として、病気にかかった者の罪を赦されました。それは、彼らをサタンの圧迫から解放し(使徒10:38)、神へと回復させるためでした。聖書学者たちは、これを自分たちの宗教の神学に反するものと考えました(1―12節)。 (2) 彼は病気でみじめな人々のための医者として、自分の民族に不誠実で不忠実な取税人や、社会から孤立し、さげすまれた罪人と共に食事をされました。それは、彼らが神のあわれみを味わい、神の享受へと回復されるためでした。これは、自らを義とする者たち、無慈悲なパリサイ派の聖書学者たちによって、罪定めされました(13―17節)。 (3) 彼は婚宴の部屋にいる子たちと共にある花婿として、彼に従う者たちに断食させず、楽しませ喜ばせられました。こうして彼は、ヨハネの弟子たち(新しい宗教家)とパリサイ人(古い宗教家)の習わしを廃棄されました。それは、彼に従う者たちが、彼らの宗教の習わしから、彼らの花婿である神のキリストの享受の中へと救われ、神の新約エコノミーの中で、彼らの外側の衣としてのキリストの義と、内側のぶどう酒としてのキリストの命を持つためでした(18―22節)。 (4) 彼は彼に従う者たちが、安息日に麦畑の麦の穂を摘んで、飢えを満たすことを許されました。こうして彼らは一見、安息日に関する神の戒めを破りましたが、実際は神を喜ばせたのです。なぜなら、ダビデと彼に従う者たちの飢えが、神の家の中の供えのパンで満たされたように、奴隷―救い主に従う者たちの飢えが、キリストを通して満たされたからです。これは、神の新約エコノミーにおいて、宗教の規定を守ることではなく、真の安息日の安息としてのキリストの中で、キリストを通して満足を享受することが重要であることを示します(23―28節)。 (5) 彼は安息日に、片手のなえた人をいやされました。彼は、安息日を守ることではなく、彼の羊の健康を心にかけておられました。こうして彼は、神の新約エコノミーの中では規定を守ることではなく、命を分与することが重要であることを示されました。このために彼はパリサイ人、すなわち宗教家たちに憎まれました(3:1―6)。 奴隷―救い主が取られた五つのあわれみ深い生きた道はすべて、彼の福音の奉仕を遂行し、形式的で伝統的な宗教に相反しました。ですから、肉的で、頑固で、命のない宗教的な指導者たちに忌み嫌われたのです。 |