出典 |
フットノート |
マルコ 5:12 注1 |
幾つかの写本は、すべての悪鬼、となっています。 |
マルコ 5:13 注1 |
幾つかの写本は、直ちにイエスは、となっています。 |
マルコ 5:20 注1 |
十の都市から成る地域。 |
マルコ 5:22 注1 |
22節から43節(22―43節)については、マタイ第9章18節から26節(マタイ9:18―26)のノートを参照。福音の奉仕における神の奴隷の奇跡的行ないを述べるこの記録で、マルコは再び、マタイにまさって詳細を述べています。これは生き生きとした表現であり、特に病人の苦しみ、救いの奉仕において奴隷―救い主が彼らに見せた、優しさと思いやり、ペテロがその場にいたことが、描写されています。 |
マルコ 5:23 注1 |
文字どおりには、救われ。 |
マルコ 5:25 注1 |
この女に関する出来事は、会堂管理人の娘の出来事とつながっており、彼女の病気の十二年が娘の年齢であること、一人は大人で一人は若くはあるが、両方とも女性であることから、これらの出来事は、一人の人の完全な物語であると考えてよいでしょう。この見方によれば、その娘は、いわば、その婦人の死の病の中で生まれ、また死の病のゆえに死んだのです。その婦人の死の病が救い主によっていやされた時、その死んでいた娘は死から起き上がりました。これは、堕落したすべての人は罪という死の病の中で生まれ、罪の中で死んでいることを象徴します(エペソ2:1)。その罪という死の病が、救い主の贖いの死によって取り扱われる時(Iペテロ2:24)、その人は死から命の中へ起き上がります(ヨハネ5:24―25)。 |
マルコ 5:28 注1 |
あるいは、完全にされる。文字どおりには、救われる。病とは、悪魔が病人の上に及ぼす圧迫です。ですから、奴隷―救い主のいやしは、苦しめられている被害者であった彼女に与えられた救いの奉仕でした。この救いによって、彼女は、邪悪な者の圧迫からの救出と解放を享受しました(使徒10:38)。第1章31節(1:31)のノート1を参照。 |
マルコ 5:30 注1 |
奴隷―救い主は、受肉して人となった神でした(ヨハネ1:1,14)。彼の衣は彼の人性における彼の完全な振る舞い、彼の人性の美徳における完全さを象徴します。彼の衣に触るとは、事実上、人性の中の彼ご自身、神が化身していた方に触れることです(コロサイ2:9)。そのような接触によって、彼の神聖な力は、彼の完全な人性を通して、触れる人の中へ注入され、彼女のいやしとなったのです。近づきがたい光の中に住む神は、奴隷―救い主の中で、彼の人性を通して、触れることのできる方となりました。こうして彼女は、神に触れ、救いと享受を受けました。これが病める罪人に対する、神の奴隷としての奴隷―救い主の奉仕です。 |
マルコ 5:31 注1 |
押し迫っている群衆は、救い主から何も受けませんでしたが、触った者は受けました。 |
マルコ 5:33 注1 |
恐れは内側のもので、おののきは外面的に表れたものです。 |