出典 |
フットノート |
マルコ 9:39 注1 |
これは、奴隷―救い主が、福音の奉仕の実行において、彼に近くなかった信者たちに対して寛容であったことを示します。この面で、ピリピ人への手紙第1章16節から18節(ピリピ1:16―18)における使徒パウロの態度と、民数記第11章26節から29節(民11:26―29)におけるモーセの態度は、ここの奴隷―救い主の態度と同じでしたが、ヨハネの性急な態度はそうではありませんでした。38節から50節(38―50節)のこの区分が、33節から37節(33―37節)の区分に続いていることは、非常に意義深いです。その箇所で、奴隷―救い主は彼に従う者たちに、自分を低くすることを教えられました。なぜなら、彼らはだれが一番偉いのかと議論し合っていたからです。おそらく二人の雷の子、ヤコブとヨハネが、その議論の一番の原因であったでしょう(参照,10:35―45)。異なることを行なった信者たちに我慢できなかったのも、やはりヨハネでした。この性急な行動は、おそらく偉大なものになろうとする彼の野心と関係があります。他の信者たちの異なる行動に対して寛容な態度を取ることができなかった理由は、この野心であったでしょう。これはクリスチャンの間の分裂の、基本的な要因です。奴隷―救い主は確かに、この事でヨハネに同意されませんでした。 |
マルコ 9:40 注1 |
この言葉は、マタイによる福音書第12章30節(マタイ12:30)の言葉と矛盾してはいません。両方とも奴隷―救い主の口から出た言葉であり、彼の格言と考えることができます。ここの格言は、彼に逆らわない人々に関して(39節)、実行上の、外側の在り方を語っています。マタイでは、彼に逆らっている人々に関して(マタイ12:24)、内側の目的の一致について語っています。内側の一致を維持するために、わたしたちはマタイにある言葉を実行する必要があります。外側の在り方に対しては、ここの言葉を実行して、わたしたちと異なる信者たちに寛容であるべきです。 |
マルコ 9:41 注2 |
これは、ヨハネによって禁じられた人が、奴隷―救い主に属する真の信者であったことを、主が知っておられたことを示します。これはヨハネにとって、一つの学びであったに違いありません。 |
マルコ 9:41 注1 |
ヨハネの挙動は、他の人を取り扱うことでした。ここの奴隷―救い主の知恵ある言葉は、ヨハネと他の弟子たちを、他の人々に取り扱われる者としました。これはすべての人が、彼らであっても他の信者たちであっても、主の顧みの下にあることを意味します。なぜなら、すべては主のものであるからです。弟子たちが他の信者たちに何かをするにしても、他の信者たちが弟子たちに何かをするにしても、それが主の御名において行なわれる限り、水一杯を飲ませることでも褒賞を受けます。 |
マルコ 9:41 注3 |
この褒賞は、来たるべき王国の時代に与えられるでしょう(ルカ14:14)。ヘブル第10章35節(ヘブル10:35)のノート1とIIコリント第5章10節(IIコリント5:10)のノート2を参照。 |
マルコ 9:42 注1 |
ここで奴隷―救い主は、話題の中心をヨハネと他の弟子たちから、一般の信者たち、すなわち、主が小さい者たち(37節の小さい子供たちとは関係がない)とされたすべての人に向けられました。実際、ヨハネと他の弟子たち、また彼らに禁じられた人も、その中に含まれていました。これは、ヨハネと他の弟子たちに対する警告と考えられるでしょう。すなわち、異なる方法で奴隷―救い主に従っているどの信者たちをも、つまずかせてはならないということです。 |
マルコ 9:42 注2 |
文字どおりには、ろばの(回させる)石うす。 |
マルコ 9:43 注1 |
ここのつまずかせる者は、人から信者たちの肉体の肢体に変えられています。信者たちは互いにつまずかせてはなりませんし、自分の肉体の肢体によってつまずかされてはなりません。これは、信者たちが奴隷―救い主の目にいかに尊いかを示しています。彼らはみな奴隷―救い主のために、完全に守られなければなりません。信者たちをつまずかせる要因となり得るすべてのものは、厳重に取り扱われるべきです。 |
マルコ 9:43 注2 |
マタイ第5章29節(マタイ5:29)のノート1を参照。45節(45節)も同じ。 |
マルコ 9:43 注4 |
マタイ第5章22節(マタイ5:22)のノート8を参照。続く節も同じ。 |