出典 |
フットノート |
マルコ 10:49 注1 |
多くの人は、あわれな盲人の乞食をしかりましたが、奴隷―救い主は、その盲人の乞食を呼ぶよう彼らに命じられました。再び、彼の人性が、みじめな人々に対する彼のあわれみと同情によって表現されました。51節(51節)のノート1と21節(21節)のノート1を参照。 |
マルコ 10:51 注1 |
窮乏の人に対する何という開かれた愛でしょう! それは奴隷―救い主の人性を、想像を絶するほどに表現しました。49節(49節)のノート1を参照。 |
マルコ 10:52 注1 |
第1章31節(1:31)のノート1と第5章28節(5:28)のノート1を参照。 |
マルコ 11:1 注1 |
1節から11節(1―11節)については、マタイ第21章1節から10節(マタイ21:1―10)のノートを参照。 |
マルコ 11:2 注1 |
奴隷―救い主の全知は、彼の神性を語り出しました。第2章8節(2:8)のノート1を参照。 |
マルコ 11:7 注1 |
彼のへりくだりと柔和を象徴します(マタイ21:5とノート2)。 |
マルコ 11:7 注2 |
人々の振る舞いとその中に現れる美徳を象徴します(参照,イザヤ64:6.啓19:8)。弟子たちは、彼らの衣を主が乗られる子ろばの上に投げかけ、大勢の人は、自分たちの衣を主が通られる道に敷きました(8節)。これは、一方で彼らが奴隷―救い主をあがめていたことを示し、もう一方で、彼らの美徳の現れであったその振る舞いが、奴隷―救い主の休むための座る席であり、彼が通るための道であることを示しています(参照,マタイ21:7とノート1)。わたしたちの行ない、振る舞いは、主のための道を開き、主が安息することができる座席となるべきです。 |
マルコ 11:8 注1 |
これは、枝が多くて厚く重なっていただけでなく、人々がその上を安全に歩くことができたことをも示します。 |
マルコ 11:8 注2 |
ギリシャ語は、人々がその上で歩いたり横になったりするために、葉、小枝、葦の茎、わらなどをばらまいたり重ねたりしたものを意味します。ここでは派生的に、柔らかい葉の茂った枝を示します。ここで群衆が、道の上にこのような枝をじゅうたんのように重ねて広げたのは、彼らがあがめ、愛する奴隷―救い主が、都に入る時にその上を歩くことができるようにするためでした。 |
マルコ 11:8 注3 |
人の命の豊かさと新鮮さを象徴します。しおれて乾いた葉(詩1:3)と正反対です。 |