出典 |
フットノート |
ルカ 13:35 注1 |
この家は(ギリシャ語は単数)神の家であり、神の宮でした。ユダヤ人が主を拒絶したために、御子にあって来た神である主は、その宮をユダヤ人自身の家と考え、見捨てられました。そして、それを破壊され、荒廃する場所として、彼らに残されました。 |
ルカ 14:1 注1 |
彼を訴えようとする邪悪な意図をもって(マルコ3:2)。 |
ルカ 14:2 注1 |
体腔内や組織内に形成される水分のために、体がむくむ病気。これは、神の御前に霊的な死を生じさせる、命の不正常な内なる機能を象徴します。 |
ルカ 14:5 注1 |
幾つかの写本は、子、となっています。 |
ルカ 14:13 注1 |
これらは、神によって救いへと招かれた人たちです(21節)。 |
ルカ 14:14 注1 |
命の復活(ヨハネ5:29.啓20:4―6)を示します。それは、主の再来において(Iコリント4:5)、神が聖徒たちに褒賞を与えられる時です(啓11:18)。 |
ルカ 14:16 注1 |
この盛大な晩餐は、マタイによる福音書第22章2節から14節(マタイ22:2―14)の婚宴とは異なります。婚宴は、王国の褒賞のためのものです。この盛大な晩餐は、神の全き救いのためのものです。神は「ある人」として、盛大な晩餐、すなわち彼の全き救いを準備されました。そして最初の使徒たちを彼の奴隷として、ユダヤ人を招くために遣わされました(16―17節)。しかし彼らは、土地、家畜、妻など、彼らの富で占有されていたので、彼の招待を断りました(18―20節)。そこで、神は使徒たちを遣わし、大通りの人たち、すなわち、貧しい人、体の不自由な人、盲人、足の不自由な人を招かれました。彼らはその貧しさと悲惨さのゆえに、神の招待を受け入れました(21―22節前半)。しかし神の救いには、もっと多くの人のための余地がありました。そこで彼は奴隷たちをさらに遠く、すなわち道と垣根に象徴される異邦人の世界へ遣わし、異邦人を強いてでも連れて来て、彼の救いの家を満たされます(22―23節.使徒13:46―48.ローマ11:25)、(22節は後半から)。 |
ルカ 14:26 注1 |
26節から33節(26―33節)で、主は一緒について来る群衆に(25節)、彼に従うことの代価について明らかにされました。救いを受け入れるとは、救われることであり(13:23)、主に従うとは、彼を神の救いの祝福として享受することです。これは、わたしたちにすべてを、自分の命さえも放棄して、自分の十字架を担うことを要求します(26―27,33節)。 |
ルカ 14:27 注1 |
十字架の目的は、苦しませることではなく、人を終わらせることです。キリストにある信者たちは、彼と共に十字架につけられ(終わらせられ)ました(ガラテヤ2:20.ローマ6:6)。信仰を通して彼と有機的に結合された後、彼らは十字架の上にとどまり、古い人を十字架の殺しの下に保つべきです(参照,ローマ6:3.コロサイ2:20―21)。これが自分の十字架を担うことです。キリストはまず十字架を担われ、それから十字架につけられました(ヨハネ19:17―18)。しかし彼にある信者たちは、まず十字架につけられ、それから自分の十字架を担います。それは、彼らの古い人が、終わらせられることの中にとどまるためであり、こうして彼らは、命であり、命の供給であるキリストを経験し、享受するのです。 |
ルカ 14:28 注1 |
ここの主の言葉と31節(31節)の言葉は、一生主に従うことは、わたしたちが持っているすべて、なし得るすべてを投入しなければならないことを示しています。そうでないと、わたしたちは失敗した者となり、味を失った塩となって、栄光の領域から恥辱の領域へ投げ捨てられるでしょう(34―35節)。 |