出典 |
フットノート |
マタイ 5:41 注1 |
古代ローマのマイル。一千歩の長さ。 |
マタイ 5:42 注1 |
求める者に与えること、借りたいと思う者に背を向けないことは、王国の民が物質的なものを顧慮しないこと、またそれらに占有されていないことを証明します。 |
マタイ 5:45 注1 |
「あなたがたの父の子」という称号は、山上で新しい王の布告をここで聞いている者たち、すなわち王国の民が、新約の再生された信者であることの強い証拠です。 |
マタイ 5:45 注2 |
正しい者にも不正な者にも雨を降らせるとは、恵みの時代でのことです。しかし来たるべき時代、王国の時代では、正しくない者の上に雨は降りません(ゼカリヤ14:17―18)。 |
マタイ 5:46 注1 |
王国の新しい律法を王国の実際において守る王国の民は、王国の出現において褒賞が与えられます。褒賞は、救いとは異なります。人は救われても、褒賞を受けるとは限りません(参照、ヘブル10:35のノート1)。 |
マタイ 5:46 注2 |
ローマ政府のために税金を徴収した人たち。彼らのほとんどは職権を乱用し、偽って不当な取り立てをしていました(ルカ3:12―13.19:2、8)。ローマ政府に税金を支払うことは、ユダヤ人にとっては非常に屈辱的なことでした。その徴収に当たる人たちは、人々に軽べつされ、何の尊敬にも値しないものとされていました(ルカ18:9―10)。ですから、彼らは罪人扱いされていたのです(9:10―11)。 |
マタイ 5:48 注1 |
王国の民が天の父のように完全であるとは、御父の愛において完全であることです。彼らは御父の子供たちであり、御父の神聖な命と神聖な性質を持っています。ですから、彼らは御父のように完全になることができるのです。王国の新しい律法の要求は、旧経綸の律法の要求よりはるかに高いものです。この高い要求は、御父の神聖な命によってはじめて果たされるのであって、決して 彼らの天然の命によって成就されることはありません。天の王国は最高の要求です。そして父の神聖な命は、その要求を満たす最高の供給です。福音書は、まずマタイによる福音書で、天の王国の最高の要求を提示し、最後にヨハネによる福音書で、天の父の神聖な命の最高の供給をわたしたちに与えます。それは、わたしたちが天の王国の最高の命を生きるためです。マタイによる福音書第5章から第7章の王国の新しい律法の要求は、再生された王国の民の新しい命、神聖な命の内側からの表現です。この要求は、再生された民の内なる存在を全開することによって、彼らがそんなにも高い程度に達することができ、そんなにも高い生活を持つことができるということを、彼らに見せるのです。 |
マタイ 6:1 注1 |
山上での王の憲法の第四の部分(1―18節)は、王国の民の義なる行為に関するものです。 |
マタイ 6:1 注2 |
ここの義は義なる行為、例えば施しをすること(2―4節)、祈ること(5―15節)、断食すること(16―18節)などを示します。 |
マタイ 6:1 注3 |
人の肉は、自分に栄光を帰そうとして、常に人々の前で良い行ないをし、人にほめられようとします。しかし王国の民は、空にされ、へりくだった霊の中で生き、王国の天的支配の下で、純粋で単一な心で歩む人たちです。人の栄光を得るために、肉の中で物事を行なうことは許されません。王国の民は天の父を喜ばすために、霊の中ですべての事を行なわなければなりません。 |