出典 |
フットノート |
マタイ 6:1 注4 |
王国の民にとって、神は彼らの神であるだけでなく、彼らの父でもあります。彼らは神によって創造されただけでなく、御父によって再生されています。彼らは創造された天然の人の命があるだけでなく、非受造の霊的で神聖な命も持っています。ですから、山上で王が発布された王国の新しい律法の意図は、堕落した人の命によってではなく、御父の永遠の神聖な命によって、そして人の栄光を得るためではなく、御父からの褒賞を受けるために、それを守るべきであるということです。 |
マタイ 6:2 注2 |
舞台俳優。ギリシャやローマの俳優は、彼らの声量を増大するための、仕掛けのついた大きな仮面を付けて語るのが習わしでした。ですから、偽装する者。後の節も同じです。 |
マタイ 6:2 注3 |
第4章23節のノート1を参照。この書全体にわたってそうです。 |
マタイ 6:2 注1 |
天に支配された王国の民の霊は確かに、ここに書かれているような肉的な誇りから彼らを守ります。 |
マタイ 6:3 注1 |
この言葉は、王国の民の義なる行為が、できるだけ秘密にされるべきであることを示します。天的支配の下で、彼らの霊の中で、彼らの父だけを喜ばせるために物事を行なうことは、人の誉れを求める肉の欲によって妨げられてはなりません。 |
マタイ 6:4 注1 |
王国の民は、御父の神聖な命によって生活し、彼らの霊にしたがって歩みます。ですから、彼らは善を大っぴらにではなく、隠れて行なうことを要求されます。公の展覧は、神聖な命の奥義的な隠された性質とは一致しません。 |
マタイ 6:4 注2 |
王国の民は天の父の子たちとして、父の臨在の中で生き、父の臨在を顧みなければなりません。彼らが父の王国のために隠れて行なうことを、父は隠れて見ておられ、そしてそれに報いてくださいます。彼らの天の父が隠れて見ておられることは、彼らが隠れて義なる行為を行なうことへの励ましであるに違いありません。6節と18節も同じです。 |
マタイ 6:4 注3 |
これはこの時代に(IIコリント9:10―11)、あるいは来たるべき時代に褒賞として(ルカ14:14)起こります。 |
マタイ 6:5 注1 |
人にほめられようとする祈りは、人からの報いを得るかもしれません。しかし、御父からは答えを受けません。ですから、それはむなしい祈りです。 |
マタイ 6:6 注1 |
王国の民は、密室での祈りの経験がなければなりません。こうして彼らは、隠れて彼らの天の父に触れ、御父の隠れた享受を経験し、彼から隠れた答えを受けるのです。 |