出典 |
フットノート |
ヨハネ 5:29 注2 |
第3章20節(3:20)のノート1を参照。 |
ヨハネ 5:29 注3 |
あるいは、罪定めの復活。これは未信者たちの復活で、滅びに至るものです。それは、千年期の後に起こります(啓20:5、12)。すべての死んだ未信者は、千年の後に復活して、大いなる白い御座で裁かれます(啓20:11―15)。ですから、この復活は、裁きの復活と呼ばれます。 24節から26節(24―26節)は、霊を生かすことについて語ります。28節から29節(28―29節)は、体を含めた全存在の復活について語ります。 |
ヨハネ 5:33 注1 |
ギリシャ語は、第1章14(1:14)、17節(1:17)の「実際」と同じ言葉です。前の節で、ヨハネはキリストについて証しをしたと言います。この節は、ヨハネは真理について証しをしたと言います。これは、ここの真理がキリストであることを証明します(14:6)。この福音書の啓示全体によれば、真理とは、キリスト、神の御子に化身され、啓示され、表現された、神聖な実際です。Iヨハネ第1章6節(Iヨハネ1:6)のノート6を参照。 |
ヨハネ 5:36 注1 |
第1章6節(1:6)のノート1を参照。38節(38節)も同じ。 |
ヨハネ 5:37 注1 |
これは、主がバプテスマされた時、御父がされた主についての証しを指しています(マタイ3:17)。その時、ユダヤ人は御父の声を聞き、聖霊の形を見ました(ルカ3:22)。その時より以前に、彼らは御父の声を聞いたことも、聖霊の形を見たこともありませんでした。 |
ヨハネ 5:39 注1 |
「聖書を調べ」ることと、「わたしに来」る(40節)ことは、分けて考えられます。ユダヤ人の宗教家たちは聖書を調べましたが、進んで主に来ようとはしませんでした。この二つを一緒にすべきです。聖書は主について証しをしていますから、聖書と主を引き離してはなりません。わたしたちは聖書に触れても、主に触れないかもしれません。主だけが、命を与えることができるのです。 |
ヨハネ 5:40 注1 |
39節(39節)のノート1を参照。 |
ヨハネ 5:43 注1 |
御子が御父の御名の中におられることは、御子が御父であられることと等しいです。ですから、彼は御父と呼ばれます(イザヤ9:6)。これは、御子と御父が一であることを証明します(10:30)。第14章26節(14:26)のノート2を参照。 |
ヨハネ 6:1 注1 |
この事例は第5章の事例とは対照的です。第5章の人は池のそばにいました。ここで、人々は海の周りにいます。前の事例の背景は聖なる都であり、そこに人をいやす神聖な池がありました。この事例の背景は荒野であり、そこには人が生活する世俗的な海があります。前の事例の人は無力で、命の活気づけを必要としました。この事例の人々は飢えていて、命の養いを必要としています。予表では、陸は神によって創造された地を象徴し、人は地上で生活しています。海はサタンによって腐敗させられたこの世を象徴し、堕落した人はその中で生活しています。この世で人類は飢えており、何の満足もありません。この世で人類は悩まされ、何の平安もありません。それは、18節(18節)で描写されているようにです。 |
ヨハネ 6:3 注1 |
山は陸や海を越えた超越の立場を象徴します。キリストの養いを享受するために、人はキリストと共に山へ行かなければなりません。 |