出典 |
フットノート |
ヨハネ 6:57 注1 |
食べることは、食物をわたしたちの中に取り入れることであり、こうして食物は、わたしたちの体に有機的に吸収同化されます。ですから、主イエスを食べることは、彼をわたしたちの中に受け入れることであり、こうして彼が再生された新しい人によって、命の方法で吸収同化されます。そうすればわたしたちは、わたしたちが受け入れる方によって生きます。このようにして復活した方は、わたしたちの中で生きられるのです(14:19―20)。 |
ヨハネ 6:62 注1 |
56節(56節)では、主の復活が暗示されています。この節では、復活に続く彼の昇天がはっきりと述べられています。主の昇天は、彼の贖いのみわざが完成した証拠です(ヘブル1:3後半)。 |
ヨハネ 6:63 注1 |
この時点で、命を与える霊がもたらされます。肉体と成った主イエスは(1:14)、復活の後、また復活を通して、命を与える霊と成られました。これは、コリント人への第一の手紙第15章45節(Iコリント15:45)ではっきりと述べられているとおりです。彼は命を与える霊であるので、わたしたちの命また命の供給となることができます。わたしたちが、十字架につけられ復活した救い主として彼を受け入れる時、命を与える霊はわたしたちの中に入って来て、永遠の命を与えられます。わたしたちは主イエスを受け入れますが、得るのは命を与える霊です。 |
ヨハネ 6:63 注2 |
ここの「肉」は、文脈によれば、物質の体の肉を指しています。主が、「わたしが与えるパンはわたしの肉であり」と言われた時(51節)、彼はご自分の体の肉を与えて食べさせるものと、ユダヤ人は考えました(52節)。彼らは主の言葉を正しく理解しませんでした。彼らにとって、それはひどい言葉でした(60節)。ですから、この節で主は、彼らに与えて食べさせるのは彼の物質の体の肉ではない、肉体の肉は何の役にも立たない、と説明されました。彼が与えようとされるのは、結局命を与える霊であり、復活の中の主ご自身です。 |
ヨハネ 6:63 注3 |
この節と68節(68節)の「言葉」のギリシャ語は「レーマ(rhema)」であり、即時的な現在の語られている言葉を意味します。それは恒常的な言葉を意味する「ロゴス(logos)」(1:1で使われている「言」)とは違います。ここで、「言葉」に続いて「その霊」があります。その霊は生きていて実際ですが、非常に奥義的であり、わかりにくく、人は把握しにくいです。しかし言葉は具体的です。第一に、主は命を与えるために、その霊になることを示されました。それから彼は、ご自身の語る言葉は霊であり、命であると言われました。これは、彼の語られた言葉が、命の霊の具体化であることを示します。彼は今や復活の中で命を与える霊であり、その霊は彼の言葉の中に具体化されています。わたしたちが、わたしたちの霊を活用することによって彼の言葉を受け入れる時、命であるその霊を得るのです。 |
ヨハネ 6:64 注1 |
文字どおりには、彼を引き渡す。この書全体を通してそうです。 |
ヨハネ 7:1 注1 |
主は創造者なる神であるのに、地上で一人の人として生き、しかも彼の被造物から迫害を受けられました。 |
ヨハネ 7:2 注1 |
第6章の事例は、過越の祭りの時に起こりました。第7章のこの事例は、仮庵の祭りの時に起こりました。過越の祭りはユダヤ人の年ごとの祭りの最初のものであり、仮庵の祭りは最後のものです(レビ23:5、34)。過越の祭りは、一年の最初の祭りとして、人生の始まりを暗示します(参照、出12:2―3、6)。それは、人が満足を追い求めるのに、その結果は人の飢えであると言っています。仮庵の祭りは、一年の最後の祭りとして、人生の完了と成功を暗示します(参照、出23:16)。それには終わりがあり、その結果は人の渇きです。過越の祭りの場面では、主はご自身を人の飢えを満たす命のパンとして提供されました。仮庵の祭りの場面では、主は生ける水を流し出して、人の渇きをいやすことを約束されました。 ユダヤ人は作物を完全に収穫し終わった後、仮庵の祭りを守って神を礼拝し、刈り取った物を享受しました(申16:13―15)。ですからこの祭りは、人の事業、学歴、宗教を含む人生の他の事柄での完成、成就、成功、それに伴う喜びと享受を象徴します。 神が仮庵の祭りを定められたのは、イスラエルの子たちが、自分たちの父祖が荒野をさまよっていた時、どのように天幕の中に住み(レビ23:39―43)、良き地の安息に入ることを期待していたかを、思い起こさせるためです。ですから、この祭りは、人々が今日まだ荒野にいて新エルサレムの安息、すなわち永遠の幕屋(啓21:2―3)に入る必要があることを、思い起こさせます。アブラハム、イサク、ヤコブも天幕で生活して、この永遠の幕屋を待ち望んでいました(ヘブル11:9―10)。この永遠の幕屋では、命の水の川が神と小羊の御座から流れ出て、人の渇きをいやします(啓22:1、17)。そのような祭りの最後の日に、そのような背景をもって、キリストが生ける水の川の約束を叫ばれたのです。その生ける水の川は、永遠に人の期待を満足させます(37―39節)。 |
ヨハネ 7:6 注1 |
主は永遠の計り知れない無限の神であるのに、人として生活し、この地上で時間の制限さえ受けられました。 |
ヨハネ 7:10 注1 |
主は全能の神であるのに、迫害の下にある人として、行動においても制限を受けられました。 |