出典 |
フットノート |
ヨハネ 8:25 注1 |
主の語りかけは、彼が何であるか、特に前の節で語られた「わたしはある」のように、彼の永遠の神性を啓示します。これは、主の言葉に啓示されている基本的要素です。 |
ヨハネ 8:28 注1 |
「上げてしまった」(あるいは、上げられた)という語句は、第3章14節(3:14)と第12章31節から34節(12:31―34)にも使われています。第3章14節(3:14)で、主は人の子として、蛇の形で上げられて、蛇の毒を受けた人々に対する神の裁きを担われました。第12章31節から34節(12:31―34)で、主が人の子として上げられるのは、古い蛇、サタン、この世の支配者を追い出すためです。ですからこの章で、主は上げられた人の子として、蛇の毒を受けた人々を、蛇の毒である罪から救い出すことができるのです。 |
ヨハネ 8:32 注1 |
ギリシャ語は、第1章14(1:14)、17節(1:17)の「実際」と同じです。真理とは、いわゆる教理上の真理ではなく、神聖な事柄の実際、すなわち主ご自身です(参照、14:6のノート2.1:14、17)。この節は、「真理はあなたがたを自由にする」と言いますが、36節(36節)は、「子があなたがたを自由にする」と言います。これは、御子、主ご自身が真理であることを証明します。主は神の化身ですから(コロサイ2:9)、彼は神であるものの実際です。ですから実際とは、神の神聖な要素そのものであって、わたしたちに実際化されたものです。大いなる「わたしはある」としての主が、わたしたちに命として入って来る時、わたしたちの内側を光として照らし、神聖な要素を実際としてわたしたちの中にもたらされます。この実際、すなわち、わたしたちの中に分与され、わたしたちに実際化された神聖な要素は、人の光としての神聖な命によって、罪の束縛からわたしたちを解放します。神の言としての主が肉体と成られた時(1:14)、彼は神をこの実際として、わたしたちにもたらされました。それは、神がわたしたちの享受としての恵みとなられるためでした(1:17)。 |
ヨハネ 8:32 注1 |
ギリシャ語は、第1章14(1:14)、17節(1:17)の「実際」と同じです。真理とは、いわゆる教理上の真理ではなく、神聖な事柄の実際、すなわち主ご自身です(参照、14:6のノート2.1:14、17)。この節は、「真理はあなたがたを自由にする」と言いますが、36節(36節)は、「子があなたがたを自由にする」と言います。これは、御子、主ご自身が真理であることを証明します。主は神の化身ですから(コロサイ2:9)、彼は神であるものの実際です。ですから実際とは、神の神聖な要素そのものであって、わたしたちに実際化されたものです。大いなる「わたしはある」としての主が、わたしたちに命として入って来る時、わたしたちの内側を光として照らし、神聖な要素を実際としてわたしたちの中にもたらされます。この実際、すなわち、わたしたちの中に分与され、わたしたちに実際化された神聖な要素は、人の光としての神聖な命によって、罪の束縛からわたしたちを解放します。神の言としての主が肉体と成られた時(1:14)、彼は神をこの実際として、わたしたちにもたらされました。それは、神がわたしたちの享受としての恵みとなられるためでした(1:17)。 |
ヨハネ 8:42 注1 |
第1章6節(1:6)のノート1を参照。 |
ヨハネ 8:44 注1 |
悪魔は罪人の父ですから、罪人は悪魔の子です(Iヨハネ3:10)。悪魔は年を経た蛇であり(啓12:9.20:2)、そして罪人もやはり蛇、まむしの子らです(マタイ23:33.3:7)。ですから彼らは、主が蛇の形で、十字架において彼らのために上げられ(3:14)、罪からだけでなく、罪の源である悪魔からも救われる必要がありました(ヘブル2:14)。 |
ヨハネ 8:44 注2 |
ここの主の言葉は、うそつきの父である悪魔には、一つの特別な悪い事があることを啓示しています。すなわち、悪魔を罪の源としていることです。これは悪魔自身のもの、悪魔だけが持っているものであって、他の被造物が持っていないものです。 |
ヨハネ 8:44 注3 |
あるいは、偽りの父。悪魔はうそつきの父ですから、罪の源です。神の神聖な要素は、命と光として人の内で働き、人を罪の奴隷から解放します。ところが悪魔の邪悪な要素は、死と暗やみを通して罪として人の内で働き、人を罪の奴隷とさせます。悪魔の性質は偽りであって、死と暗やみをもたらします。暗やみがあれば、真理の正反対である偽りがあります。 |
ヨハネ 8:47 注1 |
第6章63節(6:63)のノート3を参照。 |
ヨハネ 8:51 注1 |
第2章で設定された原則によれば、これも死を命に変えることです。 |