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出典

フットノート

ヨハネ 8:55 注1 この節では、二つのギリシャ語が、「知る」に対して用いられています。最初は外側の、客観的な知識を意味します。第二は内側の、主観的な意識のことを言います。主イエスはパリサイ人に、彼らは父なる神を、外側の客観的な知識においてさえ知っていないが、自分は御父を、内側の主観的な意識において知っている、と言われました。
ヨハネ 8:55 注1 この節では、二つのギリシャ語が、「知る」に対して用いられています。最初は外側の、客観的な知識を意味します。第二は内側の、主観的な意識のことを言います。主イエスはパリサイ人に、彼らは父なる神を、外側の客観的な知識においてさえ知っていないが、自分は御父を、内側の主観的な意識において知っている、と言われました。
ヨハネ 8:58 注1 大いなる「わたしはある」としての主は、永遠に、いつまでも存在する神です。ですから彼は、アブラハムが存在する以前におられ、アブラハムよりも偉大です(53節)。
ヨハネ 9:1 注1 この事例は、律法の宗教が(参照、14節のノート1)、決して盲人を助けることができなかったという、もう一つの証明です。ところが主イエスは、世の光として、命の方法で彼に視力を与えられました(10:10後半、28)。
ヨハネ 9:1 注2 盲目は、前の章での罪のように、やはり死の問題です。死んでいる人は、確かに盲目です。「この時代の神は・・・・信じない者たちの思いをくらましてしまい」。ですから彼らは、「キリストの栄光の福音の輝き」が彼らを照らして(IIコリント4:4)、「彼らの目を開き、彼らを暗やみから光へ、サタンの権威から神に立ち返らせる」必要があります(使徒26:18)。第2章で設定された原則によって、これも死を命に変えることです。
ヨハネ 9:2 注1 この質問は、第4章20節から25節(4:20―25)と第8章3節から5節(8:3―5)のように、しかりか否かの事柄であって、知識の木に属し、その結果は死です(創2:17)。しかし3節(3節)での主の答えは、彼らに主ご自身、すなわち命の木である方を示し、その結果は命です(創2:9)。
ヨハネ 9:6 注1 ここの泥は、ローマ人への手紙第9章21節(ローマ9:21)でのように、人性を象徴します。ここのつばきは、主の口から出るもの(マタイ4:4)として、霊であり命である主の言葉を象徴します(6:63)。主がつばきで泥を作ることは、人性とその霊である主の生ける言葉との混ざり合いを象徴します。「油塗る」という言葉が、このことを証明します。なぜなら主の霊は、油塗る霊であるからです(ルカ4:18IIコリント1:21―22Iヨハネ2:27)。ここで主は彼のつばきで泥を作り、その盲人の目に塗って、見えるようにされました。これは、(主の霊である)彼の言葉とわたしたちの人性との混ざり合い、という油塗りによって、サタンによって盲目にされていたわたしたちの目が、見えるようになることを象徴します。
ヨハネ 9:7 注2 第1章6節(1:6)のノート1を参照。
ヨハネ 9:7 注1 ここで洗うとは、泥を洗い落とすことです。これは、バプテスマにおいて経験したように、わたしたちの古い人性を洗い去ることを象徴します(ローマ6:3―46)。
ヨハネ 9:7 注3 彼が行って洗ったことは、彼が主の命を与える言葉に従ったことを意味します。ですから、彼は視力を得ました。もし彼が泥を塗られた後、行ってそれを洗い落とそうとしなかったなら、その泥は彼をもっと盲目にしたことでしょう。主の油塗りに従うことは、わたしたちを清めて、視力をもたらします。
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