出典 |
フットノート |
ヨハネ 10:9 注1 |
キリストは、旧約の時代には、モーセ、ダビデ、イザヤ、エレミヤなど、神の選ばれた者たちが、キリストの来られる前に律法の管理の中に入るための門であっただけでなく、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、パウロなどの神の選びの民が、キリストの来られた後、律法の囲いから出て来るための門でもあります。ですから主はここで、彼は神の選びの民が入るための門であっただけでなく、神の選びの民が外へ出るための門でもあることを示しておられます。 |
ヨハネ 10:9 注2 |
ここの牧場は、羊を養う場所としてのキリストを象徴します。牧場が利用できない時(例えば、冬の期間や夜間)には、羊は囲いの中で守られなければなりません。牧場の用意ができると、羊はもはや囲いの中にとどまっている必要はありません。囲いの中に保たれているのは過渡的であり、一時的です。牧場にいて、その豊富を享受することは最終的であり、永久です。キリストが来られる前は、律法は後見人であって、律法の下にいることは過渡的でした。今や、キリストが来られたからには、神の選びの民はみな律法から出て、彼の中に入り、彼を彼らの牧場として享受しなければなりません(ガラテヤ3:23―25.4:3―5)。これは最終的であり、永久であるべきです。ユダヤ教の指導者たちは、そのような啓示がなかったために、ユダヤ教が基としていた律法を、永久のものと考えました。その結果、彼らはキリストを見失い、牧場としての彼にあずかることはできませんでした。 |
ヨハネ 10:10 注1 |
ギリシャ語は「ゾーエ(zoe)」。この言葉は、新約では永遠の、神聖な命に用いられています。 |
ヨハネ 10:11 注1 |
ギリシャ語は「プシュケ(psuche)」、魂。すなわち魂の命であり、後の節も同じです。主は人として、プシュケの命、人の命を持っておられ、神として、ゾーエの命、神聖な命を持っておられます。彼はご自身の魂、プシュケの命、人の命を捨てて、彼の羊のために贖いを達成されました(15、17―18節)。それは、彼らが彼のゾーエの命、彼の神聖な命(10節後半)、永遠の命(28節)にあずかり、それによって一人の牧者である主ご自身の下で、一つの群れへと形成されるためです。良い牧者として、主はこのようにして、またこの目的で、神聖な命をもって彼の羊を養われます。 |
ヨハネ 10:16 注1 |
他の羊とは、異邦人信者です(使徒11:18)。 |
ヨハネ 10:16 注2 |
一つの群れは一つの召会、キリストの一つからだを象徴します(エペソ2:14―16.3:6)。これは、主がご自身の死を通して彼の肢体に分与された、主の永遠の、神聖な命によって生み出されたものです(10―18節)。囲いは文字と規定のユダヤ教であり、群れは命と霊に属する召会です。 |
ヨハネ 10:22 注1 |
紀元前170年から168年まで、シリアの王、アンティオカス・エピファネスはエルサレムに侵入し、宮を荒らしました。さらに紀元前168年十二月二十五日、彼は祭壇に豚をささげ物とし、宮に偶像を立て、こうして宮を汚し、損傷を与えました。三年後の紀元前165年、ユダの勇士、ユダ・マッカバイオスが祭壇と宮をきよめ、修復しました。彼は祭壇と宮が汚された日、十二月二十五日を、聖なる祭りの初めの日と定め、続く八日間を、祭壇と宮きよめと修復を行なった偉大な達成を祝賀する喜びの日としました。この聖なる祭りが、ここで述べられている宮の奉献の祭りです。 |
ヨハネ 10:24 注1 |
文字どおりには、魂。 |
ヨハネ 10:25 注1 |
第5章43節(5:43)のノート1を参照。 |
ヨハネ 10:28 注1 |
永遠の命(参照、3:15のノート1)は、信者たちの生活のためです。御父が彼の愛の中で、彼の目的にしたがって行なわれた選びの手と(17:23.6:38―39)、御子が彼の恵みによって、御父の目的の成就のために行なわれた救いの手(1:14.6:37)、この両方の手に守る力があり、信者たちを保護します。永遠の命は、決して尽きることはなく、御子と御父の手は、決して失敗することはありません。ですから信者は、永遠に堅固であり、決して滅びることはありません。 |