出典 |
フットノート |
ヨハネ 14:6 注2 |
キリストは、神聖な事柄の実際です。この実際は、彼を通して来て、わたしたちに対して神の事柄の実際となります。第1章14節(1:14)のノート6、Iヨハネ第1章6節(Iヨハネ1:6)のノート6を参照。 |
ヨハネ 14:7 注1 |
この章は、神がご自身を人の中に分与される道を啓示しています。ご自身をわたしたちに分与することで、神は三一です。神は一であり、しかも三、すなわち父、子、霊です。御子は御父の化身、表現であり(7―11節)、その霊は御子の実際、実現です(17―20節)。御父は御子の中で(御子は御父とさえ呼ばれています―イザヤ9:6)表現され、見られます。御子はその霊として(IIコリント3:17)啓示され、実際化されます。御父は御子にあって、信者たちの間で表現され、御子はその霊として、信者たちの中で実際化されます。父なる神は隠されており、子なる神は人の間に現され、霊なる神は人の中に入って、人の命また命の供給、すべてとなられます。ですから、この三一の神―御子にある御父と、その霊としての御子は、ご自身をわたしたちへと分与して、わたしたちの分け前となられます。それは、わたしたちが彼の神聖な三一の中で、彼をすべてとして享受するためです。 |
ヨハネ 14:10 注1 |
第6章63節(6:63)のノート3を参照。 |
ヨハネ 14:12 注1 |
主は御父から来て、受肉を通して神を人の中にもたらされました。今や彼は彼の死と復活を通して御父へ行き、人を神の中にもたらそうとしておられます。 |
ヨハネ 14:13 注1 |
主の名の中にいる(13、14節)とは、主と一であり、主によって生き、主にわたしたちの中で生きていただくことを意味します。主は御父の名の中で来て、事を行なわれました(5:43.10:25)。それは、彼が御父と一であったこと(10:30)、彼が御父のゆえに生きられたこと(6:57)、御父が彼の中で働かれたこと(10節)を意味します。福音書で、主は御父の表現として、御父の名の中で事を行なわれました。使徒行伝で、弟子たちは主の表現として、主の名の中で、さらに大きな事柄をさえ行ないました(12節)。 |
ヨハネ 14:13 注2 |
御父が御子の中で栄光を受けられるとは、御子の内側から彼の神聖な成分が表現されることです。御子が行なうことは何であれ、御父の神聖な要素を表現することです。これが、御父が御子の中で栄光を受けられることです。 |
ヨハネ 14:16 注1 |
ここのギリシャ語は、「弁護者」、「そばにいてわたしたちの諸事、案件を顧みる者」を意味します。ギリシャ語の「慰め主」は、ヨハネの第一の手紙第2章1節(Iヨハネ2:1)の「弁護者」と同じ言葉です。今日わたしたちは、天の主イエスと、わたしたちの案件を顧みてくださる、内側の弁護者としてのその霊(慰め主)を持っています。 |
ヨハネ 14:17 注1 |
ここで約束されたその霊は、第7章39節(7:39)で述べられました。この霊は命の霊であり(ローマ8:2)、主のこの約束は、主の復活の日に成就されました。その時、命の息としてのその霊は、弟子たちの中に吹き込まれました(20:22)。ここの主の約束は、ルカによる福音書第24章49節(ルカ24:49)の力の霊に関する御父の約束とは異なります。その約束は、主の復活の五十日後、ペンテコステの日に成就されました。その時は、力ある風としてその霊が、弟子たちの上に吹きつけました(使徒2:1―4)。この節の命の霊は、「実際の霊」と呼ばれています。この実際の霊はキリストです(6節)。ですから、実際の霊はキリストの霊です(ローマ8:9)。この霊はキリストの実際であって(Iヨハネ5:6、20)、キリストが命また命の供給として、彼の中へと信じる者たちの中で、実際化されることができるためです。 |
ヨハネ 14:17 注2 |
この節の実際の霊である「彼」こそ、18節(18節)の主ご自身である「わたし」となられます。これは、肉体にあったキリストが、死と復活を経過して、命を与える霊、霊である(ニューマ的)キリストと成られたことを意味します。コリント人への第一の手紙第15章45節(Iコリント15:45)は、これを確証します。この節は復活の事柄を取り扱って、「最後のアダム(肉体にあるキリスト)は命を与える霊と成った」と言っています。 |
ヨハネ 14:17 注3 |
その霊の内住の約束が啓示されたのは、これが最初です。この約束は書簡の中で成就され、完全に発展しています。Iコリント第6章19節(6:19)、ローマ第8章9(ローマ8:9)、11節(ローマ8:11)を参照。 |