出典 |
フットノート |
マタイ 7:11 注2 |
この節と平行しているルカによる福音書第11章13節では、「良いもの」ではなく、「聖霊」です。なぜならルカの強調は福音の祝福であり、その中心はその霊であるからです(ガラテヤ3:8、14)。マタイの強調は天の王国であり、「良いもの」は王国の実際の祝福を言っています。それは第5章から第7章で啓示されたように、王国の民に賜物として与えられる祝福です。 |
マタイ 7:12 注1 |
王国の新しい律法は、律法と預言者と矛盾しません。むしろ、それらを満たし、補足さえします。 |
マタイ 7:13 注1 |
王の憲法の第七で最後の部分(13―29節)は、王国の民の生活と働きの基に関してです。 |
マタイ 7:13 注3 |
ここの「崩壊」は本人の滅亡ではなく、彼の行為と働きの崩壊を言っています(Iコリント3:15)。 |
マタイ 7:13 注2 |
文字どおりには、導く。次の節も同じ。 |
マタイ 7:14 注2 |
ここの「命」は、王国の常に祝福されている状態、神の永遠の命で満たされた状態のことを言っています。この命は今日、王国の実際の中にあり、また来たるべき時代には、王国の出現の中にあります(19:29.ルカ18:30)。 |
マタイ 7:14 注1 |
門が狭くその道が細いのは、王国の新しい律法が旧契約の律法より厳格であり、王国の要求が旧契約の要求より高いからです。それは外側の行動だけでなく、内側の動機までも取り扱います。古い人、自己、肉、人の観念、この世とその栄華はすべて排除され、神のみこころに合うものだけ、入ることができます。王国の民は、まずそのような狭い門から入り、次にそのような細い道を歩む必要があります。まず道を歩いて、それから門に入るのではありません。門に入ることは、その道を歩み始めることにすぎません。その道は生涯のものです。 |
マタイ 7:15 注1 |
文字どおりには、強奪する。 |
マタイ 7:21 注1 |
天の王国に入るために、わたしたちは二つの事、主を呼び求めることと、天におられる父のみこころを行なうことをする必要があります。主を呼び求めることは、わたしたちが救われるのに十分です(ローマ10:13)。しかし天の王国に入るためには、天の父のみこころを行なう必要があります。ですから、「主よ、主よ」と言う者がみな、天の王国に入るのではなく、主を呼び求めて天の父のみこころを行なう者が入るのです。 天の王国に入ることは、天の父のみこころを行なうことを要求するのですから、それは再生されて神の王国に入ることとは明らかに異なっています(ヨハネ3:3、5)。神の王国に入ることは神聖な命の誕生により、天の王国に入ることは神聖な命の生活によります。 |
マタイ 7:22 注1 |
「かの日」とは、キリストの裁きの座の日のことを言っています(Iコリント3:13.4:5.IIコリント5:10)。 |