出典 |
フットノート |
ヨハネ 17:21 注1 |
これは信者たちの一の第二の面です。そしてそれは、聖別を通しての三一の神の中での一であり、神の言葉によるこの世からの分離です。一のこの面において、この世から神へと分離された信者たちは、彼らの一の要因としての三一の神を享受します。 |
ヨハネ 17:22 注1 |
御父が御子に与えられた栄光とは、子たる身分であり、それには御父の命と神聖な性質を伴っています(5:26)。子たる身分が与えられたのは、御子が御父の豊満の中で御父を表現するためです(1:18.14:9.コロサイ2:9.ヘブル1:3)。御子はこの栄光を、彼の信者たちに与えられました。それは、彼らも、御父の命と神聖な性質を伴う子たる身分を持って(2節.IIペテロ1:4)、御子の中で、御子の豊満の中で(1:16)、御父を表現するためです。 |
ヨハネ 17:22 注2 |
これは信者たちの一の第三の面であり、神の団体的表現のための、神聖な栄光における一です。一のこの面において、信者たちは彼らの自己が完全に否定されて、彼らの完成された一の要因として御父の栄光を享受し、こうして、団体的な建造された方法で神を表現します。これは神聖な委託の一であり、それは御子の祈りを成就します。すなわち、信者たちが建造されることによって、御子が完全に表現され、栄光が現されるように、御子が栄光を現されることによって、御父も完全に表現され、栄光が現されるということです。ですから、信者たちの究極的一は、(1) 神の永遠の命の中で(御父の御名の中で)、(2) 聖なる言葉によって、(3) 神聖な栄光の中で、永遠にわたって三一の神を表現することです。御子がこの一を成し遂げるために、御父は御子に六つのものを与えられました。それは、権威(2節)、信者たち(2、6、9、24節)、わざ(4節)、言葉(8節)、御父の御名(11―12節)、御父の栄光(24節)です。信者たちがこの一にあずかるために、御子は彼らに三つのものを与えられました。それは、永遠の命(2節)、神の聖なる言葉(8、14節)、神聖な栄光(22節)です。(23節の「一」も同じです)。 |
ヨハネ 17:23 注1 |
御父が御子を愛されたのは、御子に彼の命、性質、豊満、栄光を与えて、御子が御父を表現するためです。同じように、御父が御子の信者たちを愛されたのは、彼らに彼の命、性質、豊満、栄光を与えて、彼らが御子において御父を表現するためです。これは栄光の物語であり、また愛の物語です。 |
ヨハネ 17:24 注1 |
御子は、御父の表現の神聖な栄光の中にあります。ですから、御子の信者たちが、彼のおられる所に彼と共にいるというのは、神聖な栄光の中に彼と共にいて、御父を表現することを意味します。この事の成就は、御子の復活に始まりました。その時、彼は彼の信者たちに、彼の復活の命にあずからせられました。そしてそれは、新エルサレムにおいて究極的に完成します。その時には、彼の信者たちは神聖な栄光へと完全にもたらされ、三一の神を永遠にわたって、究極的に、団体的に表現します。 |
ヨハネ 17:25 注1 |
この世は御父を知らず、また御父を欲しません。しかし、御子と御子の信者たちは、御父を知っており、また御父を欲しています。ですから、御父は御子と彼の信者たちを愛されます。それは、御父が彼の栄光を、御子と彼の信者たちに与えることができるためです。この事において、彼は義であり正しくあられます。御子の信者たちを聖別するために、御父は聖であられます(11節)。御子と彼の信者たちを愛し、御子と信者たちに彼の栄光を与えるために、御父は義であられます。 |
ヨハネ 17:26 注1 |
ここの愛は御父の愛です。この愛の中で、御父は彼の命と栄光を、御子と彼の信者たちに与えられました。それは、御子と彼の信者たちが御父を表現するためです。御子は、この愛が彼の信者たちの中にあるように、また彼らが常にこの愛の感覚を持っているようにと祈られました。 |
ヨハネ 18:1 注1 |
主は自発的にご自身を死の手順に引き渡されました。それは、彼が第10章17節から18節(10:17―18)で述べられたとおりです。彼はそれを自ら進んで、大胆に行なわれました。 |
ヨハネ 18:4 注1 |
1節(1節)のノート1を参照。 |
ヨハネ 18:5 注1 |
「わたしである」は、エホバの御名です(6、8節も同じ)。第8章24節(8:24)のノート1を参照。兵卒たちは、この御名を聞いた時、後ずさりして地に倒れました。 |