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出典

フットノート

ヨハネ 19:28 注1 渇きは死の味わいです(ルカ16:24啓21:8)。主イエスは十字架上で、わたしたちのために、死を味わわれました(ヘブル2:9)。
ヨハネ 19:30 注1 マタイによる福音書第27章34節(マタイ27:34)とマルコによる福音書第15章23節(マルコ15:23)では、苦みと没薬を混ぜたぶどう酒が、彼の十字架刑の前に、苦痛を和らげる麻酔用の飲み物として主に差し出されました。しかし、彼はそれを飲もうとされませんでした。この節の酢は、彼の十字架刑の終わりに、あざけって彼に差し出されました(ルカ23:36)。
ヨハネ 19:30 注2 主は十字架につけられた時、なおも働いておられました。彼は十字架刑を通して、すべてを含む死の働きを成し遂げられました。彼は死によって贖いを達成し、旧創造を終わらせ、復活の命を解き放って、神の目的を成就する新創造を生み出されたのです。死の過程において、主は敵対する者たちと彼の信者たちに、彼の行動したことによって、彼が命であることを証明されました。死の恐るべき環境は、少しも彼をおびえさせませんでした。むしろ、それは一つの対比を形成して、彼が死と相対する命であること、決して死に影響され得ない命であることを、力強く証明しました。ですから、主がここで終えられた働きは、贖いの達成、旧創造の終結、復活の命の解放、彼が決して死に影響されない命であることの展覧を含みました。
ヨハネ 19:34 注1 二つの実体、血と水が、主の刺し通された脇から流れ出ました。血は贖いのためです。それは罪を対処し(1:29ヘブル9:22)、召会を買い取るためです(使徒20:28)。水は命を分け与えるためです。それは死を対処し(12:243:14―15)、召会を生み出すためです(エペソ5:29―30)。主の死は、消極面でわたしたちの罪を取り除き、積極面でわたしたちの中に命を分け与えます。ですから、それには二つの面、贖いの面と命を分け与える面があります。贖いの面は、命を分け与える面のためです。他の三つの福音書の記録は、主の死の贖いの面だけです。ヨハネの記録は、贖いの面だけでなく、命を分け与える面をも描写しています。マタイ第27章45(マタイ27:45)、51節(マタイ27:51)、マルコ第15章33節(マルコ15:33)、ルカ第23章44節から45節(ルカ23:44―45)で、罪の象徴である暗やみが現れ、人を神から隔てていた宮の幕が裂かれました。これらのしるしは、主の死の贖う面と関係があります。主が十字架上で語られた、ルカ第23章34節(ルカ23:34)の「父よ、彼らをお赦しください」と、マタイ第27章46節(マタイ27:46)の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(彼がその時、わたしたちの罪を担われたからです)も、主の死の贖いの面を描いています。ところが、34節(34節)と36節(36節)でヨハネが述べた流れる水と砕かれない骨は、主の死の命を分け与える面(参照、26節のノート1)に関するしるしです。命を分け与えるこの死は、主の神聖な命を彼の内側から解き放って、召会を生み出すためです。召会は、彼の神聖な命が分け与えられたすべての信者から構成されます。この主の命を解き放す死は、エバを生み出したアダムの眠りで予表されます(創2:21―23)。また、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの穀粒を生み出して(12:24)、パン、すなわちキリストのからだを作る(Iコリント10:17)ことで象徴されています。ですから、それはまた命を繁殖し、命を増殖する死、発芽させ再生産する死でもあります。
 主の刺し通された脇は、エバが生み出された、アダムの開かれた脇で予表されます(創2:21―23)。血は過越の小羊の血で予表され(出12:722啓12:11)、水は打たれた岩から流れ出た水で予表されます(出17:6Iコリント10:4)。血は罪を洗うための泉を形成し(ゼカリヤ13:1)、水は命の泉となりました(詩36:9啓21:6)。
ヨハネ 19:34 注1 二つの実体、血と水が、主の刺し通された脇から流れ出ました。血は贖いのためです。それは罪を対処し(1:29ヘブル9:22)、召会を買い取るためです(使徒20:28)。水は命を分け与えるためです。それは死を対処し(12:243:14―15)、召会を生み出すためです(エペソ5:29―30)。主の死は、消極面でわたしたちの罪を取り除き、積極面でわたしたちの中に命を分け与えます。ですから、それには二つの面、贖いの面と命を分け与える面があります。贖いの面は、命を分け与える面のためです。他の三つの福音書の記録は、主の死の贖いの面だけです。ヨハネの記録は、贖いの面だけでなく、命を分け与える面をも描写しています。マタイ第27章45(マタイ27:45)、51節(マタイ27:51)、マルコ第15章33節(マルコ15:33)、ルカ第23章44節から45節(ルカ23:44―45)で、罪の象徴である暗やみが現れ、人を神から隔てていた宮の幕が裂かれました。これらのしるしは、主の死の贖う面と関係があります。主が十字架上で語られた、ルカ第23章34節(ルカ23:34)の「父よ、彼らをお赦しください」と、マタイ第27章46節(マタイ27:46)の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」(彼がその時、わたしたちの罪を担われたからです)も、主の死の贖いの面を描いています。ところが、34節(34節)と36節(36節)でヨハネが述べた流れる水と砕かれない骨は、主の死の命を分け与える面(参照、26節のノート1)に関するしるしです。命を分け与えるこの死は、主の神聖な命を彼の内側から解き放って、召会を生み出すためです。召会は、彼の神聖な命が分け与えられたすべての信者から構成されます。この主の命を解き放す死は、エバを生み出したアダムの眠りで予表されます(創2:21―23)。また、一粒の麦が地に落ちて死に、多くの穀粒を生み出して(12:24)、パン、すなわちキリストのからだを作る(Iコリント10:17)ことで象徴されています。ですから、それはまた命を繁殖し、命を増殖する死、発芽させ再生産する死でもあります。
 主の刺し通された脇は、エバが生み出された、アダムの開かれた脇で予表されます(創2:21―23)。血は過越の小羊の血で予表され(出12:722啓12:11)、水は打たれた岩から流れ出た水で予表されます(出17:6Iコリント10:4)。血は罪を洗うための泉を形成し(ゼカリヤ13:1)、水は命の泉となりました(詩36:9啓21:6)。
ヨハネ 19:36 注1 これらの事柄が、このような意義深い、驚くべき方法で起こったのは、絶対に神の主権によりました。これは、主の死が偶然ではなく、世の基の置かれる前から神によって計画されていたことを、強く証拠立てます(Iペテロ1:19―20)。
ヨハネ 19:36 注2 創世記第2章21節から23節(創2:21―23)で、聖書は初めて骨に言及します。アダムから取り出された一本の肋骨があって、アダムにふさわしいエバを生み出し、建造しました。エバは召会の予表です。召会は、主から解き放された彼の復活の命をもって生み出され、建造されました。ですから、骨は主の復活の命の象徴、図形です。何ものも、それを砕くことはできません。主の脇は突き刺されましたが、彼の骨は一つも砕かれませんでした。これは、主の肉体の命が終わらせられたとはいえ、彼の復活の命、神聖な命は傷つけられることがなく、何ものによっても駄目にされることはないことを象徴します。これが命であり、この命をもって召会は生み出され、建造されます。それはまた永遠の命であって、わたしたちは彼の中へと信じることによって、永遠の命を得たのです(3:36)。
ヨハネ 19:38 注1 主が、贖い、命を解き放す死を達成された後、彼の苦難の状態は、直ちに誉れある状態に変わりました。ヨセフという富裕な人(マタイ27:57)と、ニコデモというユダヤ人の指導者(3:1)が、彼の埋葬をするために来て、彼の体を没薬とアロエで包み、新しい墓に富める者と共に葬りました(イザヤ53:9)。主は安息日に、高い標準にある人の尊貴の内に安息して(ルカ23:55―56)、死人の中から復活する時を待たれました。
ヨハネ 19:39 注1 第12章3節(12:3)のノート1を参照。
ヨハネ 20:1 注1 週の初めの日、あるいは安息日の翌日は、新しい始まり、新しい時代を象徴します。レビ記第23章10節から11節(レビ23:10―11)、15節(レビ23:15)では、収穫物の初穂の束が、安息日の翌日に、揺り動かすささげ物として主にささげられました。その初穂の束は、復活の初穂としてのキリストの予表です(Iコリント15:2023)。キリストは正確に、安息日の翌日に復活されました。彼はすべてを含む死によって、旧創造を終わらせられました。旧創造は、六日間で完成され、その後、安息日がありました。彼は復活において、神聖な命をもって、新創造を発芽させられました。ですから、それは新しい週、すなわち新しい時代の開始です。彼の復活のこの日は、神によって指定されており(詩118:24)、詩篇第2篇7節(詩2:7)で「今日」と予言されていましたが、彼ご自身は三日目と予言されました(マタイ16:21ヨハネ2:1922)。そして後ほど、これは初期のクリスチャンによって「主日」と呼ばれました(啓1:10)。この日に、キリストは復活の中で生まれて、神の長子となり(使徒13:33ヘブル1:5)、からだなる召会のかしらとしての、死人の中から最初に生まれた方となられました(コロサイ1:18)。
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