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出典

フットノート

ヨハネ 20:20 注1 これは、第16章22節(16:22)の主の約束の成就です。今、彼らが歓喜したのは、彼らが新しく生まれた子を見たからです(16:21)。彼は復活した主であり、復活の中で神の子として生まれました(使徒13:33)。主は彼の約束を成就し、彼の弟子たちに戻って来て、彼らに五つの祝福をもたらされました。それは、(1) 彼の臨在、(2) 彼の平安、(3) 彼の派遣、彼の委託(21節)、(4) 聖霊(22節)、(5) 彼を代表することのできる彼の権威(23節)です。
ヨハネ 20:21 注1 第1章6節(1:6)のノート1を参照。
ヨハネ 20:21 注2 主は弟子たちを、彼らの命またすべてとしてのご自身を伴って、遣わされました(参照、17:18のノート1)。ですから、主は「わたしもあなたがたを遣わす」と言われた直後に、彼らの中に聖霊を吹き込まれたのです。彼らに息を吹き込むことによって、彼はその霊として弟子たちの中に入って、永遠に彼らの中に住まわれます(14:16―17)。ですから、弟子たちがどこへ遣わされても、彼は常に彼らと共におられました。主は彼らと一つでした。
ヨハネ 20:22 注1 これは7:39で期待され、14:16―17、26、15:26、16:7―8、13で約束されたその霊です。ですから、主が聖霊を弟子たちの中へ吹き込まれたことは、慰め主としての聖霊について主が約束されたことの成就でした。この成就は、使徒行伝第2章1節から4節(使徒2:1―4)におけるものとは異なります。それは、ルカによる福音書第24章49節(ルカ24:49)での御父の約束の成就でした(参照、14:17のノート1)。使徒行伝第2章では、その霊は激しい突風のように、弟子たちの働きのために、彼らの上に力として臨みました(使徒1:8)。ここでは、その霊は息のように、弟子たちの命のために、命として彼らの中へ吹き込まれました。主はその霊を弟子たちの中に吹き込むことによって、ご自身を命またすべてとして彼らの中に分け与えられました。こうして、彼が第14章から第16章で語られたことは、すべて成就されたのです。
 地に落ちて死に、地から成長することが、麦粒を別の新しい生きた形へと造り変えるように、主の死と復活も、彼を肉からその霊へと変貌させました。彼は肉体にある最後のアダムとして、死と復活の手順を経て、命を与える霊と成られました(Iコリント15:45)。彼は御父の化身であり、その霊は彼の実現、実際です。彼はその霊として、弟子たちの中に息を吹き込まれました。彼はその霊として、彼の信者たちの中に受け入れられ、そして生ける水の川々のように、彼らから流れ出ます(7:38―39)。彼はその霊として、ご自身の死と復活を通して弟子たちに戻って来て、彼らの慰め主として彼らの中に入り、彼らの中に住み始められました(14:16―17)。彼はその霊として、弟子たちの中に生きることができ、また彼らは彼によって、彼と共に生きることができます(14:19)。彼はその霊として、弟子たちの中に住むことができ、彼らを彼の中に住まわせることができます(14:2015:4―5)。彼はその霊として、御父と共に彼の愛する者に来て、彼と共に住まいを造ることができます(14:23)。彼はその霊として、彼であるすべてと、彼が持っておられるすべてを、弟子たちによって完全に実際化させることができます(16:13―16)。彼はその霊として来て、彼の兄弟たち、すなわち召会と共に集まり、御父の御名を彼らに告げ知らせ、彼らのただ中で御父を賛美されました(ヘブル2:11―12)。御父が彼を遣わされたのと同じように、彼はその霊として、彼の弟子たちを、彼らの命またすべてとしての彼ご自身と共に、彼の委託のために遣わすことができます(21節)。こうして、彼らは彼のからだの交わりの中で、彼の権威をもって(23節)彼を代表し、彼の委託を遂行する資格があるのです。
 主は言でした。そして言は永遠の神です(1:1)。彼は神の永遠の目的を成就するために、二つの段階を取られました。第一に、彼は受肉の段階を経て、肉体にある人となり(1:14)、人のために贖いを成就する神の小羊となり(1:29)、人に神を明らかに示し(1:18)、御父を彼の信者たちに現されました(14:9―11)。第二に、彼は死と復活の段階を経て、その霊へと変貌されました。それは、彼が信者たちに、彼らの命またすべてとしてご自身を分与するためであり、神の多くの子たち、彼の多くの兄弟たちをもたらし、彼のからだ、召会、神の住まいを建造して、永遠にわたって三一の神を表現するためです。こうして、彼はもともと永遠の言でしたが、次に受肉を通して、神の贖いを達成するために肉体と成られました。そして死と復活を通してその霊と成り、神の建造を完成するために、あらゆるものとなり、またあらゆることを行なわれます。
 この福音書は、主が以下のものであることを証ししています。すなわち、(1) 神(1:1―25:17―1810:30―3314:9―1120:28)、(2) 命(1:410:1011:2514:6)、(3) 復活(11:25)です。第1章から第17章は、彼が人の間で神であることを証明します。人が、神である彼と対比しています。第18章から第19章は、彼が死の環境において命であることを証明します。死、あるいは死の環境が、命である彼と対比しています。第20章から第21章は、彼が旧創造、天然の命のただ中で、復活であることを証明します。旧創造、天然の命が、復活である彼と対比しています。その霊は復活の実際です。復活としての彼は、その霊においてのみ実際とされます。ですから結局、彼は復活の中のその霊です。彼は人々の間で神であり(第1章―第17章)、死の中で命であり(第18章―第19章)、復活の中でその霊です(第20章―第21章)。
ヨハネ 20:23 注1 原文は、複数。
ヨハネ 20:24 注1 すなわち、双子。
ヨハネ 20:24 注2 主は復活の後、第一日目の夕方に始まって、弟子たちに会いに来られました。ですから、主の復活の中で聖徒たちと共に集会をすることは、極めて重要です。マグダラのマリヤはその朝、個人的に主に会って、祝福を得ました(16―18節)。ところが彼女はなおも夕方、聖徒たちと共に集会の中にいて、団体的に主と出会い、さらに多くの、さらに大きな祝福を得る必要がありました(19―23節)。トマスは、主が復活の後、彼の弟子たちと持たれた最初の集会に出なかったので、その中のすべての祝福を逃しました。しかし、彼は二回目の集会に参加して、その補いをしました(25―28節)。
ヨハネ 20:26 注1 これは、主が復活された後、第二回目の週の初めの日、第二回目の主日でした。
ヨハネ 20:26 注2 この弟子たちの集まりは、ペンテコステの前に、主の臨在をもって開かれた召会の第二回目の集会と考えられるでしょう。
ヨハネ 20:26 注3 八日前、主が19節(19節)で来られた後、ヨハネの記録には、主が弟子たちを離れられたという明確な言葉も暗示もありません。彼らが主の臨在に気づかなかったとしても、実際上、主は彼らと同在しておられたのです。ですから、26節(26節)で彼が来られたというのは、実は彼の出現、彼の現れです(参照、21:1のノート2)。主は死なれる前、肉体の中にいて、彼の臨在は見えるものでした。主は復活の後、その霊と成られ、主の臨在は見えなくなりました。彼の復活の後の出現、あるいは現れは、弟子たちを訓練して、彼らが彼の見えない臨在を認識し、享受し、それに慣れるようにするためでした。彼の見えない臨在は、見える臨在よりもさらに便利で、すぐれており、尊く、豊かで、実際的です。この愛すべき彼の臨在は、復活の中のその霊です。主はその霊を彼らの中に吹き込まれたので、その霊は絶えず彼らと共におられます。
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