出典 |
フットノート |
ヨハネ 20:28 注1 |
この福音書は、人なるイエスが神ご自身であることを、強力に、意図的に証明しています(1:1―2.5:17―18.10:30―33.14:9―11)。 |
ヨハネ 20:31 注1 |
「キリスト」は、主の職務、使命による称号です。「神の御子」は、彼のパースンによる称号です。彼のパースンは神の命の事柄であり、彼の使命は神の働きの事柄です。彼は神の御子であって、神のキリストとなられました。彼は神の命によって、神のために働かれます。それは、人が彼を信じて、神の命を持ち、神の多くの子たちとなって、神の命によって働き、団体のキリストを建造し(Iコリント12:12)、こうして、神の永遠の建造に関する神の目的を成就するためです。 |
ヨハネ 21:1 注1 |
第20章の終わりまでに、主はその霊として、ニューマ的キリストとして戻って来られ、弟子たちと共にいて、彼らのすべてとなられました。ですから、この福音書は、そこで終わってもよさそうです(20:30―31)。ところが、弟子たちはどのようにして生活していくことができるのでしょうか? 彼らはどのようにして、彼の委託を遂行すればよいのでしょうか? 彼らは主の復活の後、どのようにして彼に従うのでしょうか? 彼らの前途はどうなのでしょうか? これらの問題を取り扱うために、この追加の章が必要なのです。 |
ヨハネ 21:1 注2 |
これは、第20章26節(20:26)で、彼が弟子たちに来られたのは、実際上、一つの現れであったことを証明します。なぜならここで、彼は弟子たちに再びご自身を現された、と言っているからです。彼は再び彼らを訓練して、彼の見えない臨在に慣れるようにしておられたのです。それは、彼の来臨ではなく、彼の現れでした。彼らが彼の臨在を意識してもしなくても、彼は絶えず彼らと共におられました。彼らの弱さのゆえに、主はときどき彼の臨在を現して、彼に対する彼らの信仰を強められました。 |
ヨハネ 21:2 注1 |
すなわち、双子。 |
ヨハネ 21:3 注1 |
ペテロが彼の以前の職業に戻り、主の召しから後退したことは、彼らが生計を立てることに関する試みのゆえであったに違いありません(マタイ4:19―20.ルカ5:3―11)。 |
ヨハネ 21:3 注2 |
ペテロとゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)は、専門の漁師でした。テベリヤの海は大きく魚で満ち、また夜は漁に適した時でした。しかし、夜通し漁をしても、彼らは何も捕れませんでした。これは一つの奇跡でした! 主はすべての魚に、彼らの網から遠ざかるよう命じられたに違いありません。 |
ヨハネ 21:5 注1 |
「魚」は、ギリシャ語本文にはありません。しかし、ここのギリシャ語は、食べるための準備を言っているのですから、おそらく「魚」のことでしょう。 |
ヨハネ 21:5 注2 |
ルカによる福音書第24章41節から43節(ルカ24:41―43)にあるように、弟子たちが正しい立場にある時、家の中でさえ、自分たちの必要以上に食べる魚がありました。ですから彼らは主に一切れを差し上げました。しかし、ここで彼らは後退状態にあったので、海辺にいて、徹夜で漁をしたのに、何も、魚一匹も得ませんでした! |
ヨハネ 21:6 注1 |
朝は(4節)、漁をするのに良い時ではありませんでした。しかし、主の言葉に従って行なった時、彼らはおびただしい魚を捕らえました。確かに、これは一つの奇跡でした!主は魚に、彼らの網に入るよう命じられたに違いありません。 ルカによる福音書第5章3節から11節(ルカ5:3―11)で、主は漁における奇跡によって、ペテロを召されました。ここで彼はまた漁における奇跡によって、彼の召しにペテロを回復されました。彼の目的は、首尾一貫しています。 |