出典 |
フットノート |
ヨハネ 21:7 注1 |
あるいは、下着だけを着ていた。 |
ヨハネ 21:8 注1 |
すなわち、100メートルを少し越えた。 |
ヨハネ 21:9 注1 |
ここで主はペテロを、生活のためにご自身を信じるよう訓練されました。ペテロと、彼と一緒にいた者たちは、夜通し漁をしましたが、何も捕れませんでした。それから、主の言葉にしたがって網を下ろすと、彼らはおびただしい魚を捕りました。ところが、これらの魚がなくても、魚のいない陸でさえ、主は弟子たちのために魚とパンをも用意されました。これも奇跡でした! こうして主は彼らを訓練して、彼の導きがなければ、たとえ魚のいる海に、しかも夜、漁をする絶好の時に行ったとしても、何一つ捕ることができないこと、しかし主の導きの下では、魚のいない陸においてさえ、主は彼らのために魚を備えることができたことを、認識させられたのです。彼らは主の言葉にしたがって多くの魚を捕りましたが、主はこれらの魚を用いて、彼らを養おうとされませんでした。これは、ペテロにとって真の学課でした。彼は自分の生活に対しては、無から有を呼び出される主を信じる必要がありました(ローマ4:17)。 |
ヨハネ 21:12 注1 |
これは、主が召された者たちの必要に対する主の恵み深い顧みを示しています。 |
ヨハネ 21:13 注1 |
主の備えの中で、パンは地の豊富を代表し、魚は海の豊富を代表します。 |
ヨハネ 21:13 注1 |
主の備えの中で、パンは地の豊富を代表し、魚は海の豊富を代表します。 |
ヨハネ 21:15 注1 |
主はここで、ご自身に対するペテロの愛を回復しておられました。ペテロは主を愛する心を持っていましたが、自分の力、自分の天然の力に信頼し過ぎていました。主に対する彼の愛は尊いのですが、彼の天然の力は否まれ、対処されなければなりませんでした。主は、ペテロが徹底的に失敗して、三度もあからさまに主を否むに任せられました(18:17、25、27)。それは、彼の天然の力、彼の自信が対処されるためでした。さらに、ペテロはまさしく率先して、主の召しから後退しました。彼が主を愛しているという彼の天然の自信も、この失敗によって、必ず対処されなければなりませんでした。ですから、彼は幾らか失望していたことでしょう。こういうわけで、主は来て、ご自身に対する彼の愛を回復し、ご自身の召会を牧することを彼に命じ、彼の殉教のために彼を準備されました。それは、彼がもはや、自分の天然の力に信頼して主に従うことがないためでした。 |
ヨハネ 21:15 注2 |
ギリシャ語は、より高く高貴な愛を言っています。16節(16節)の初めの「愛」も同じです。 |
ヨハネ 21:15 注3 |
ギリシャ語は、親密な愛を意味します。16節(16節)の二番目の「愛」と、17節(17節)の「愛」も同じです。 |
ヨハネ 21:15 注4 |
第15章の実を結ぶことは、内なる命の豊富のあふれ出たものです。ここの小羊を養うことは、内なる命の豊富をもって養うことです。人を養うために、わたしたちは、主の神聖な命の豊富を享受する必要があります。このためには、わたしたちが彼を愛する必要があります。主を信じるとは彼を受け入れることであり、主を愛するとは彼を享受することです。主はわたしたちの命また命の供給として来られました。わたしたちは、彼にある信仰と、彼に対する愛を持つ必要があります。この福音書は、わたしたちが主にあずかるために、この二つの条件を示しています。 |