出典 |
フットノート |
ヨハネ 21:15 注5 |
文字どおりには、小さい小羊。 |
ヨハネ 21:15 注4 |
第15章の実を結ぶことは、内なる命の豊富のあふれ出たものです。ここの小羊を養うことは、内なる命の豊富をもって養うことです。人を養うために、わたしたちは、主の神聖な命の豊富を享受する必要があります。このためには、わたしたちが彼を愛する必要があります。主を信じるとは彼を受け入れることであり、主を愛するとは彼を享受することです。主はわたしたちの命また命の供給として来られました。わたしたちは、彼にある信仰と、彼に対する愛を持つ必要があります。この福音書は、わたしたちが主にあずかるために、この二つの条件を示しています。 |
ヨハネ 21:16 注2 |
幾つかの写本は、小羊、となっています。17節(17節)も同じです。 |
ヨハネ 21:16 注1 |
飼うことは、羊の群れ(10:14、16)、すなわち召会のためです(使徒20:28)。ですから、それは神の建造と関係があります(マタイ16:18)。ペテロはその後、彼の第一の手紙で、このことを示しました。すなわち、純粋な言葉の乳に養われて成長するのは、神の家の建造のためであると言い(Iペテロ2:2―5)、長老たちに、神の群れを牧するようにと命じています(Iペテロ5:1―4)。 |
ヨハネ 21:17 注1 |
おそらく主は、ペテロに三度問うことによって、彼がどのように主を三度否んだかを、思い起こさせておられたのでしょう。 |
ヨハネ 21:17 注2 |
この節の最初の「ご存じ」は、内側の主観的な意識を言っています。二番目は、外側の客観的な知識を言っています。第8章55節(8:55)のノート1を参照。 |
ヨハネ 21:17 注2 |
この節の最初の「ご存じ」は、内側の主観的な意識を言っています。二番目は、外側の客観的な知識を言っています。第8章55節(8:55)のノート1を参照。 |
ヨハネ 21:18 注1 |
これは、3節(3節)で彼が漁に行ったことを示しているのかもしれません。 |
ヨハネ 21:19 注1 |
その後、ペテロはこれに言及しました(IIペテロ1:14)。主がここで欲しておられたのは、ペテロを備えて、彼が自分の何かによってではなく、また自分の意志によってでもなく、死に至るまで主に従って行くことでした。 |
ヨハネ 21:22 注1 |
主はそこに弟子たちと共におられました。それではどうして、彼は「わたしの来るまで」と言うことができたのでしょうか? 主がそこにおられた以上、来る必要はありません。もし主が彼らを離れようとしており、そして後ほど彼らに戻って来ることを意味したとしたら、どうして、「わたしに従って来なさい」と言うことができたのでしょう? これらすべての疑問に対する答えは、見えない彼の臨在と関係があります。目に見える彼の臨在によれば、彼は離れますが、後になって戻って来られます。しかし見えない彼の臨在によれば、彼は絶えず彼らと共におられます。一方で、彼は彼らと共におられます。そしてもう一方で、彼は彼らから離れておられます。ですから一方で、彼らは彼に従うことができ、またもう一方で、彼らは彼の再来を待たなければならないのです。 主は彼の復活の後、四十日の間、弟子たちと共にとどまっておられました(使徒1:3―4)。それは、見えない彼の臨在を認識し、それに慣れ、それによって生きるよう、彼らを訓練するためでした。23節(23節)で、主は彼の信者たちの何人かが、死に至るまで彼に従うこと、また何人かは残っていて、彼が来るまで生きていることを示されました。 |