出典 |
フットノート |
使徒 1:26 注1 |
使徒たちは、主の昇天の後、ペンテコステの日の前まで、主の導きを求める時に見られるように、過渡期にありました。彼らは、主の復活の日に内住の霊を受けており(ヨハネ20:22)、彼の昇天前の四十日間、彼の見えない臨在を覚え、それに慣れるよう主によって訓練されました(3節)。ところが、くじを引くことによって(レビ16:8.ヨシュア14:2.サムエル上14:41.ネヘミヤ10:34.11:1.箴16:33)神の導きを求めるというような、古い伝統的な方法を脱ぎ捨てることは、彼らには依然として難しかったのです。彼らは第16章6節から8節(16:6―8)における使徒パウロのようには、内住の霊の導きと案内に(ローマ8:14)、まだ慣れていませんでした。彼らはまだペンテコステの日の前の、神の新約エコノミーの最初の段階にありました。 |
使徒 2:1 注1 |
「五十番目の」を意味します。それは主の復活の日から、七週を置いて、次の五十日目の日でした。すなわち、主が十字架につけられた過越の日(ヨハネ19:14)の後の二日目(週の最初の日―ルカ23:54―24:1)から数えて、五十日目でした。それは、刈り入れの祭り(出23:16)とも呼ばれた七週の祭り(申16:10)の満了の日、すなわち収穫の初穂の束をささげる日から数えて、第七の安息日の翌日でした(レビ23:10―11、15―16)。神の御前にささげられた初穂の束のささげ物は、彼の復活の日、すなわち安息日の翌日に(ヨハネ20:1)神にささげられた、復活のキリストの予表でした(ヨハネ20:17)。その日からペンテコステの日までが、五十日でした(参照、1:3)。刈り入れの祭りは、復活のキリストによってもたらされた豊かな産物の享受を予表します。この豊かな産物は、手順を経た三一の神のすべてを含む霊、すなわち、彼が彼の選びの民に与えられた福音の祝福です(ガラテヤ3:14)。それは、彼らがすべてを含むキリスト(三一の神の化身)を、良き地として享受するためです。これは信者たちが、ペンテコステの日に満ちあふれる霊を受けることによって、良き地に入っただけでなく、神の新約エコノミーにおける神の全き分け前として、復活と昇天におけるすべてを含むキリストの満ちあふれる豊富(エペソ3:8)にあずかったことも意味します。 |
使徒 2:2 注1 |
主の復活において、復活の命の霊は、弟子たちの中に吹き込まれた息にたとえられています(ヨハネ20:22)。これは、本質的に弟子たちの霊的存在と生活のためです。主の昇天において、弟子たちの上に注がれた昇天の力の霊は、ここでは風で象徴されており、それはエコノミー的に弟子たちの務めと動きのためです。復活の命である本質上の霊は、信者たちがキリストを生きるためです。昇天の力であるエコノミー上の霊は、彼らが彼の委託を遂行するためです。 |
使徒 2:2 注2 |
ギリシャ語は「プレロー(pleroo)」。家を満たす風のように、内面的に満たす。 |
使徒 2:3 注2 |
神のエコノミー上の動きの中で、きよめ、感動を与えるための燃える力を象徴します。 |
使徒 2:3 注1 |
語ることの象徴で、神のエコノミー上の力の霊が、おもに語るためであることを象徴します。彼は語る霊です。 |
使徒 2:3 注3 |
この動詞は単数で、一つの舌が彼らめいめいの上にとどまったことを示しています。 |
使徒 2:4 注1 |
「みな」は、最初の句の「満たされ」だけを修飾するのであって、次の句の「語り始めた」は修飾していません。ですからこの節を、聖霊で満たされた弟子たちがみな異言で語り始めたという証拠として、用いることはできません。 |
使徒 2:4 注2 |
ギリシャ語は「プレソー(pletho)」(4:8、31.9:17.13:9.ルカ1:15、41、67でも使われている)、外側で満たす。プレロー(pleroo)の本書での使われ方によれば、この言葉は、2節(2節)で風が家の内側を満たしたように、器の内側を満たすことを示します。プレソーは、この節でその霊が弟子たちを外側で満たしたように、人々を外側で満たすことを示します。彼らが内側で、本質的にその霊で満たされたのは(プレロー――13:52)、弟子たちのクリスチャン生活のためでした。彼らが外側で、エコノミー的にその霊で満たされたのは(プレソー)、彼らのクリスチャンの務めのためでした。内側を満たす霊、本質上の霊は、弟子たちの中にあり(ヨハネ14:17.ローマ8:11)、外側を満たす霊、エコノミー上の霊は、彼らの上にあります(1:8.2:17)。キリストにあるすべての信者は、聖霊の両方の面を経験すべきです。キリストでさえ人として、同じことを経験されました。彼はその存在と生活のために、本質的に聖霊から生まれ(ルカ1:35.マタイ1:18、20)、彼の務めと動きのために、エコノミー的に聖霊で油塗られました(マタイ3:16.ルカ4:18)。本質上の霊は彼の内側にあり、エコノミー上の霊は彼の上にありました。 注ぎ出された霊の外側の満たしは、昇天したかしらが、彼のからだをその霊の中へとバプテスマするためでした。ペンテコステの日に、ユダヤ人信者たち、すなわち彼のからだの最初の部分がバプテスマされました。そしてコルネリオの家で、異邦人信者たち、すなわち彼のからだの第二の部分が同じようにバプテスマされました(10:44―47)。この二段階によって、彼は彼のからだ全体を、ご自身の適用と実際化であるその霊の中へと、一度限りバプテスマされたのです(Iコリント12:13)。彼が彼のからだをその霊の中へとバプテスマしたことは、ご自身の中へとバプテスマしたことです。これは、からだのかしらであるキリストによって、第1章5節(1:5)で約束された聖霊の中にバプテスマすることの成就です。 |
使徒 2:4 注4 |
「特殊な言葉で、ここでは特に明瞭で大きな声を示す言葉として使われている」(ビンセント)。 |