出典 |
フットノート |
使徒 2:43 注2 |
不思議としるしは、神の中心的な証しの一部分ではありません。神の中心的な証しは、受肉し、十字架につけられ、復活し、昇天したキリストです。不思議としるしは、彼の全き救いの一部分でもありません。それらは、使徒たちが宣べ伝え供給したことと、彼らの行動した方法が、人からではなく、絶対に神からであったことの証拠にすぎません(ヘブル2:3―4)。 |
使徒 2:44 注1 |
第4章32節(4:32)も同じ。すべての物を共有にしたことは、愛のしるしではなく、信者たちをむさぼりと利己主義から救った、キリストのダイナミックな救いのしるしです。これは、神の新約エコノミーの開始のほんの短い期間に実行されたにすぎませんでした。それはパウロの務めの期間中、召会生活の中で行なうべき実行として、長くは続きませんでした(参照、5:4のノート1)。これは、コリント人への第二の手紙第9章や他の箇所で、彼の言葉によって証明されているとおりです。 |
使徒 2:45 注1 |
これも、主のダイナミックな救いの証拠です。それは信者たちに、彼らの地的所有物に打ち勝たせました。この地的所有物は、すべての堕落した人類を占有し、所有し、横領するものです(マタイ19:21―24.ルカ12:13―19、33―34.14:33.16:13―14.Iテモテ6:17)。 |
使徒 2:46 注1 |
神の新約エコノミーの開始において、初期の信者たちも、使徒たちの最初のグループでさえ、神がユダヤ教とその実行、そして宮を含む施設を放棄されたことが、まだはっきりしていませんでした(参照、マタイ23:38―「おまえたちの家」は、神が放棄された宮のことを言っている)。ですから、彼らはなおも彼らの伝統と習慣にしたがって、宮に行って新約の集会をしていたのです。 |
使徒 2:46 注3 |
あるいは、家で。「宮に」と対照的です。家で集まるというクリスチャンの集会の方法は、神の新約エコノミーにふさわしいものです。この方法は、会堂で集まるユダヤ的方法とは異なります(6:9)。これは、諸召会における継続的で一般的な実行となりました(参照、ローマ16:5.Iコリント16:19.コロサイ4:15.ピレモン1:2)。 |
使徒 2:46 注2 |
初期の信者たちは、日ごとに彼らの家でパンをさいて主を記念しました。これは、主に対する彼らの愛と熱心を示しました。 |
使徒 2:46 注4 |
あるいは、単一。心が単純、単一、率直であって、主を追い求めることで、一つの愛と願い、一つの目標を持っていることを現しています。 |
使徒 2:47 注1 |
彼らは人―救い主イエスがされたように(ルカ2:52)、人の美徳の中で神の特質を表現する生活をしました。 |
使徒 2:47 注2 |
これは、クリスチャン生活の開始当初から、初期の信者たちが団体的な召会生活へもたらされたことを示しています。彼らは、個人主義的に互いに分離したクリスチャンとして生活しませんでした。 |
使徒 3:1 注2 |
文字どおりには、第九時。 |