出典 |
フットノート |
使徒 9:14 注1 |
初期のころ、主の御名を呼び求めることが、主に従う者たちのしるしであったことを示しています(Iコリント1:2)。この呼び求めることは、人に聞こえるものであったに違いありません。ですから、それはしるしとなったのです。 |
使徒 9:15 注1 |
このために、サウロは母の胎内にある時から選び分けられ、主に召されました(ガラテヤ1:15)。主は主権者であり、永遠における彼の選びにしたがって、迫害者の中で最も猛烈な者に、彼が反対し迫害したその道を取らせて、福音を宣べ伝えて主の委託を遂行する器、指導的使徒とならせられます。結局、敵対者であったサウロは、勝利の福音の務めにおいて、すべての敵に対する勝利を祝う凱旋行列の中で、キリストに征服された捕虜となりました(IIコリント2:14とノート1と2)。主がそのような方法で彼の選びの器を完成されるのは、卓越したことであり、栄光に満ちたことです。 |
使徒 9:17 注1 |
サウロの事例が特別であったのは、重大な迫害者として、信者たちを迫害する途上にあった時、天から主によって直接救われたからでもあります。ですから、彼にはサマリヤの信者たち(8:14―17と17節のノート1)とエペソの十二人の弟子たち(19:1―7)のように、キリストのからだの肢体が手を置くことによって、キリストのからだとの結合に入る必要がありました。 |
使徒 9:17 注2 |
外側で満たされる(参照、2:4のノート2)。神の新約エコノミーにおける救いの原則によれば、サウロはアナニヤが来て手を置く前、回心の時に、本質的に命の聖霊を受けたはずです。アナニヤが来る前に、サウロが主に祈っていたのは(11節)、彼が、荒らし回って逮捕しようとしていた信者たちのように(21、14節)、主を信じ、主を呼び求めていたことを示します(参照、ローマ10:13―14)。しかし彼は、キリストのからだの肢体を通して救われたのではなかったので、アナニヤがからだの代表として来て、彼をキリストのからだに結合させるまで、聖霊はエコノミー的に彼の上に下りませんでした(2:17とノート2)。 |
使徒 9:18 注1 |
12節(12節)のノート1を参照。 |
使徒 9:18 注2 |
水によって(参照、8:36のノート1とマルコ16:16のノート1)。 |
使徒 9:20 注1 |
ヤコブ第2章2節(ヤコブ2:2)のノート1を参照。 |
使徒 9:27 注1 |
文字どおりには、取って。 |
使徒 9:31 注1 |
当時、召会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの地方に広がっていただけでした。「全地」という言葉は、召会が存在するすべての場所だけを含んでいるので、ここの単数の「召会」は、宇宙的な意味で使われています。これら三つの地方のさまざまな町には、数多くの召会があったに違いありません。 |
使徒 9:31 注2 |
外側では迫害がありましたが、彼らは内側で平安を持っていました。召会が恐れるのは、外側の迫害ではなく、内側に平安がないことです。平安があってはじめて、建造があり得るのです。 |