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出典

フットノート

使徒 10:44 注1 外側でエコノミー的に(参照、1:8のノート2)。コルネリオの家の場合では、聖霊が命のために本質的に信者たちの中に入れられることと、力のためにエコノミー的に彼らの上に下ることは、主を信じた時に同時に起こりました。しかしながら、彼らの上にエコノミー的に下ったことだけが、ここに記されています。それは、彼らが外側で異言で語ったり神を大きく表現したりすることが、他の人にも認識されたからです(46節)。聖霊が彼らの中に入られることは、静かに見えないかたちで起こりました。彼らはキリストのからだの他の肢体によって、水でバプテスマされる前に、かしらなるキリストから何の中間の経路もなしに、直接、聖霊の両面を受けました。これは、神の王国の福音が異邦人に拡大することが主からであったこと、からだのかしらが異邦人信者たちを直接、彼のからだへとバプテスマされたことを、強調して示しています。それは、サマリヤの信者たちやタルソのサウロの場合とは対照的です(8:179:17)。
使徒 10:45 注1 文字どおりには、聖霊の賜物。聖霊ご自身であって、賜物として信者たちに与えられる聖霊の何かではありません(参照、2:38のノート6)。
使徒 10:45 注2 復活し、昇天した、すべてを含むキリストから、神によって(参照、2:17のノート2)。
使徒 10:46 注1 異言で語ることは、エコノミー的に聖霊を受けた唯一の結果ではありませんでした。なぜなら、エペソにおける十二人の信者の場合には、預言することがその結果の一つであったように(19:6)、この場合にも、神を大きく表現すること、すなわち、神を賛美することが、その結果の一つであったからです。ですから、異言で語ることは、聖霊をエコノミー的に受ける唯一の証拠ではなく、また必然的な証拠でもありません。なぜなら、少なくとも一つの事例、サマリヤの信者の事例が(8:15―17)、エコノミー的に聖霊を受けたのに、異言で語ることを述べていないからです。後になって、コリント人への第一の手紙第14章18節(Iコリント14:18)で、異言で語ったと告げてはいますが、タルソのサウロの事例では(9:17)、この事について、異言で語ることについては何の記述もありません。
使徒 10:46 注2 ルカによる福音書第1章46節(ルカ1:46)と同じ表現。
使徒 10:47 注1 初期の使徒たちとユダヤ人信者たちがペンテコステの日に受けたように(2:4)、コルネリオの家の異邦人信者たちは、聖霊をエコノミー的に、昇天したかしらから直接、受けました。これら二つの事例だけが、新約で聖霊の中のバプテスマと考えられます(1:511:15―16)。この二つの段階によって、からだのかしらは、すべての信者、ユダヤ人と異邦人の両方を、ただ一度限り、彼のからだの中へとバプテスマされたのです(Iコリント12:13)。ですから、その霊の中のバプテスマは、ペンテコステの日とコルネリオの家の両方で、昇天のキリストによって遂行された、成就された事実です。その他のすべて、すなわち第8章のサマリヤの信者たち、第9章のタルソのサウロ、第19章の十二人のエペソの信者たちの事例は、新約の啓示にしたがった聖霊の中のバプテスマとは考えられません。これらの事例は、あの一度限りで成就された聖霊の中のバプテスマを、信者たちが経験したことであったにすぎませんでした。
 本書では、信者たちがエコノミー的に聖霊を受けること、すなわち聖霊が彼らの上に下ることについては、わずか五つの事例が述べられているだけです。そのうち二つは、聖霊の中のバプテスマの成就です。これらは、ペンテコステの日とコルネリオの家で起こった二つの事例です。その他の三つ、サマリヤの信者たち、タルソのサウロ、エペソの十二人の信者たちの事例は、特別と考えられます。それは、キリストのからだのある肢体が手を置いて、彼らをからだに結合させることを必要としている事例です。これら五つ以外の多くの回心の場合、例えば三千人(2:41)、五千人(4:4)、エチオピアの宦官(8:3638―39前半)、アンテオケで信じた多くの人(11:20―2124)、パウロの宣べ伝えの下での第13章と第14章の多くの事例、ピリピのルデヤ(16:14―15)、ピリピの獄吏(16:33)、テサロニケの信者たち(17:4)、ベレヤの信者たち(17:10―12)、アテネの信者たち(17:34)、コリントの会堂の管理人と他の多くの信者たち(18:8)、エペソの信者たち(19:18―19)などの事例には、信者たちが聖霊をエコノミー的に受けた―聖霊が信者たちに下った、という記述はありません。なぜなら、これらすべての事例には、信者たちが正常な状態の下で、信じることを通してキリストのからだの中にもたらされたので、キリストのからだのある肢体が手を置いてからだとの結合にもたらすという、特別な理由がなかったからです。神の新約エコノミーの原則によれば、彼らはみなキリストの中へと信じることを通して、聖霊を命のために本質的に、また力のためにエコノミー的に、正常に受けたのです。
使徒 10:48 注3 名はパースンを意味します(参照、マタイ28:19のノート5)。イエス・キリストの御名の中にバプテスマされるとは、キリストのパースンの中へとバプテスマされることであり(ローマ6:3ガラテヤ3:27)、彼のパースンの領域の中へとバプテスマされることでもあります(参照、2:38のノート3)。
使徒 10:48 注2 第8章16節(8:16)の「御名の中へと」を参照。
使徒 10:48 注1 第8章36節(8:36)のノート1を参照。
使徒 11:2 注1 割礼は、ユダヤ人が彼らの父祖アブラハムから始め、受け継いだ外側の規定でした(創17:9―14)。それは、彼らと異邦人を区別し、分離しました。しかし、それは死んだ伝統的な形式、何の霊的意義もない肉の上の単なるしるしとなり、神の新約エコノミーにしたがった神の福音の拡大に、大きな障害となりました(15:1.ガラテヤ2:3―4.6:12―13.ピリピ3:2、参照、10:14のノート1)。
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