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出典

フットノート

使徒 21:18 注1 第12章17節(12:17)のノート1とガラテヤ第1章19節(ガラテヤ1:19)のノート1を参照。
使徒 21:20 注1 あるいは、無数、何万。
使徒 21:20 注2 エルサレムのユダヤ人信者たちが、モーセの律法を依然として守って、旧約の経綸にとどまっており、強くユダヤ教の影響の下にあって、神の新約エコノミーと時代遅れの旧約エコノミーとを混合していたことを示しています(参照、ヤコブ1:1のノート3と2:10のノート1)。
使徒 21:21 注1 モーセの律法を捨てること、割礼を受けないこと、死んだ文字の慣例にしたがって歩まないことは、実際上、神の新約エコノミーにしたがっていることです。不信のユダヤ人は、これを神の旧約の経綸に背くことと考えました。キリストにあるユダヤ人信者たちでさえ、同じように考えました。
使徒 21:22 注1 幾つかの写本は、あなたが来たことを耳にして、群衆が集まって来るに違いありません、となっています。
使徒 21:23 注1 ナジル人の誓願のことを言っています(民6:2―5)。
使徒 21:24 注1 ナジル人と一緒にきよめを受けるとは、彼らと共にナジル人になって、彼らの誓願を果たすことに加わることです。同じ言葉が、ナジル人の義務を記述している箇所、民数記第6章3節(民6:3)の七十人訳で使われています。ナジル人の誓願を立てることは、神の御前でのきよめです。
使徒 21:24 注3 ナジル人の誓願の満了の時に行なわれるべきもの(民6:18)。この剃ることは、第18章18節(18:18)での、個人的な誓願のために刈ることとは違います(参照、その節のノート1)。
使徒 21:24 注2 ナジル人がきよめの満了のために、払わなければならなかったささげ物の費用(民6:13―17)。これは、貧しいナジル人にとっては非常に高額でした。裕福な人が貧しい人のためにささげ物の費用を払うことは、ユダヤ人の間の慣例であり、非常に敬虔であることの証拠と考えられていました。
使徒 21:26 注1 すなわち、ナジル人の誓願にあずかる(参照、24節のノート1)。これを行なうために、パウロは宮に入り、誓願の期間、七日の満了まで、ナジル人と共に、そこにとどまっていなければなりませんでした。次に、祭司は自分も含めて、めいめいのためにささげ物をささげます。確かにパウロは、そのような実行が時代遅れの経綸のものであることが、はっきりしていました。新約の務めにおけるパウロの教えの原則によれば、神の新約エコノミーにおいて、それは拒否されるべきでした。ところが、彼はそれをやり抜いたのです。おそらく、第18章18節(18:18)の初期の個人的誓願でも明らかにされていたパウロのユダヤ教的背景のため、またおそらく、彼がコリント人への第一の手紙第9章20節(Iコリント9:20)の言葉を実行していたためでしょう。しかしながら、パウロの寛大さは、神の新約エコノミーを危うくしました。神はこれを容赦されませんでした。この時点で、パウロは苦境に置かれていることを感じたに違いありません。また大いに煩わされて、そこから救い出されることを切望していたに違いありません。誓願が終わろうとしていたまさにその時、騒動がパウロに敵対して起こるのを、神は許されました。そして、彼らが成し遂げようとしていたことは吹き飛ばされました(27節)。さらに、パウロは神の主権によって、この苦境から救い出されました。
 ユダヤ教の実行と神の新約エコノミーを混合することは、神の経綸に関して誤りであるだけでなく、神の目に忌み嫌うべきものでもありました。このはなはだしい混合を、神はわずか十年前後のうちに、タイタスと彼のローマ軍によって、ユダヤ教の中心であるエルサレムと宮の崩壊をもって終わらせられました。これは、ユダヤ教の荒廃から召会を救い出し、召会を絶対的に区別しました。
 神は、パウロが第18章18節(18:18)で行なった個人的な誓願を、容認されたかもしれません。しかし、神の選びの器パウロが、新約の啓示の完成のためだけでなく(コロサイ1:25)、新約エコノミーの遂行のために(エペソ3:27―8)、ナジル人の誓願、厳格なユダヤ教の実行に加わることは、許しておくことができませんでした。パウロはエルサレムへ行く時、召会に対するユダヤ教の影響を一掃することを意図していました(参照、19:21のノート1の第二段落)。しかし神は、その召会が救い難いことを知っておられました。ですから、神は彼の主権の中で、パウロがユダヤ人によって捕らえられ、またローマ人によって投獄されることを許されました。それは、パウロが、神聖な啓示を完成する(コロサイ1:25)最後の八つの書簡を書いて(参照、25:11のノート1)、神の新約エコノミーに関するさらに明確で、さらに深遠な展望を、召会に与えるためでした(エペソ3:3―4)。こうして神は、その荒廃させる混合が、エルサレムの崩壊をもって終わらせられるまで、ユダヤ教に影響されていたエルサレムに在る召会を、そのままにしておかれました。パウロが最後の八つの書簡を書いて神の新約の啓示を完成することは、召会のために外側の働きを成し遂げることよりも、はるかに重要で必要なことでした。
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