出典 |
フットノート |
マタイ 9:13 注3 |
義人はいません。一人もいません(ローマ3:10)。すべての「義人」は、パリサイ人と同じように自分を義とする者たちです(ルカ18:9)。王なる救い主が来られたのは、彼らを招くためではなく、罪人を招くためです。 |
マタイ 9:14 注1 |
10節から13節は、古い宗教のパリサイ人の質問に対する主の取り扱いを記録しています。ここの14節から17節で、主は新しい宗教のヨハネの弟子たちの問題を取り扱われます。バプテスマのヨハネは古い宗教を捨て、宗教の圏外の荒野で彼の務めを開始しました(参照、3:1のノート2と3:4のノート1)。ところが、しばらくすると、彼の弟子たちは新しい宗教を形成し、人々がキリストを享受するのを妨げました。それは、古い宗教のパリサイ人がやったことと同じでした。バプテスマのヨハネの務めは、人々をキリストに紹介することでした。それは、キリストが彼らの贖い主、命、すべてとなるためでした。しかしながら、彼の弟子たちのある者は、ヨハネの目標であったキリストから、ヨハネが行なったことへそれてしまい、これらの実行を一つの宗教にしてしまいました。宗教的であるというのは、キリストなしに神のために何かをすることです。聖書的なことや教理にかなったことを行なうことでさえ、キリストの臨在に欠けているなら、それは宗教的なことです。新しい宗教のヨハネの弟子たちと、古い宗教のパリサイ人は、しばしば断食しましたが、キリストがありませんでした。彼らは、キリストの弟子たちが断食もせず、ただキリストと共にあって彼の臨在の中に生きていたことを、罪定めしました。 |
マタイ 9:14 注3 |
幾つかの古代の権威ある写本は、しばしば、を省いています。 |
マタイ 9:14 注2 |
第6章16節のノート1を参照。 |
マタイ 9:14 注4 |
自分を義とする古い宗教のパリサイ人は、彼らが罪に定めた取税人や罪人たちと、キリストが席を共にされたことに当惑しました(11節)。断食している新しい宗教のヨハネの弟子たちは、キリストと弟子たちが宴席を持つことに悩まされました(10節)。 |
マタイ 9:15 注1 |
主の弟子たち。主が地上で務めをしておられた過渡期に、彼の弟子たちは婚宴の部屋にいる子たちでした。やがて彼らは花嫁になります(ヨハネ3:29.啓19:7)。 |
マタイ 9:15 注2 |
自分を義として異議を唱える古い宗教のパリサイ人を取り扱う時、王なる救い主は、自分が病人をいやすために来た医者であることを示されました(12節)。断食をし、異議を唱える新しい宗教のバプテスマのヨハネの弟子たちを取り扱う時、彼はご自身を花嫁をめとる花婿であると啓示されました。バプテスマのヨハネは彼の弟子たちに、キリストは花嫁をめとる花婿であることを話していました(ヨハネ3:25―29)。今や王なる救い主キリストは、彼らのうちの何人かにこの事を思い起こさせられました。医者と花嫁はいずれも喜ばしい人たちです。王なる救い主は、まず彼に従う者をいやし、それから彼らを婚宴の子たちとされました。そして、ついには彼らを彼の花嫁とされます。彼らは、医者としての主を捕らえて、自分たちの命が回復されるだけでなく、花婿としての主を捕らえて、彼の臨在の中の享受の生活を送るべきでした。彼らは主と共に喜ばしい婚姻の場にいたのであって、彼の不在を悲しむ葬りの場にいたのではありません。どうして彼らは彼の前で宴会をしないで、断食などすることができたでしょう? この異議を唱える質問は、ヨハネの弟子たちのある者たちが、すでに新しい宗教の中に落ち込んでいたこと、そして王なる救い主を拒絶していたことを示します。 ヨハネの弟子たちの質問は、教理についての質問であるかに見えました。しかし主は一つの教理をもって答えないで、一人のパースン、最も喜ばしい方、花婿をもって答えられました。宗教的な人々は、常に教理に関心を持ち、「なぜ」という言葉で問いかけます。しかしキリストは、ご自身に対してだけ関心を払われます。彼に従う者たちの生活と歩みは、どのような教理によってでもなく、彼の臨在を伴う彼ご自身によってのみ規制され、導かれるべきです。 |
マタイ 9:15 注3 |
これは、王なる救い主が弟子たちから天へ取り去られた時に起こりました(使徒1:11)。この後、彼らは断食しました(使徒13:2―3.14:23)。 |
マタイ 9:16 注1 |
あるいは、新しい、生の、処理されていない。ギリシャ語は、否定を意味する接頭辞と、「羊毛をすく、あるいはとかす」を意味する言葉から成っています。ですから、この言葉は「とかしていない」、「蒸気をあててない」、「さらしていない」、「処理されていない」、「収縮されていない」、「加工されていない」を意味します。縮ませていない布切れは、未処理、未加工の真新しい一片の布としての、受肉から十字架までのキリストを象徴します。ルカによる福音書第5章36節の新しい衣は、彼の十字架で「処理」された後の、新しい仕立てられた衣服としてのキリストを象徴します。(ルカ5:36の「新しい」のギリシャ語は、マタイ9:17の「新しい」と同じです)。キリストは、まず新しい衣を仕立てるための収縮されていない布でした。その後、死と復活を通して、彼は神の御前でのわたしたちの義として、わたしたちを覆う新しい衣に仕立てられました。それは、わたしたちが神によって義とされ、彼に受け入れられるためです(ルカ15:22.ガラテヤ3:27.Iコリント1:30)。古い衣に継ぎ当てした縮ませていない布切れは、収縮する力で衣服を引き裂くので、その破れをさらにひどくします。古い衣に縮ませていない布切れを継ぎ当てすることは、キリストが地上で人としての生活において行なわれた事をまねることを意味します。これは、今日の近代主義者たちが企てていることです。彼らはイエスの人としての行為をまねて、自分たちの行ないを改善しようとするだけです。彼らは、神が十字架につけられたイエスを、自分の贖い主として信じようとしません。また、彼らが神によって義とされ、神に受け入れられるために、復活したキリストを彼らの義として信じようとしません。彼らがキリストの人としての生活をまねることは、彼らの「古い衣」、古い天然の命による彼らの振る舞いを「引き裂き」ます。王国の民は、このようなことはしません。彼らは十字架につけられ復活したキリストを彼らの新しい衣として取り、神の御前の義としてのキリストで自らを覆います。 |
マタイ 9:16 注2 |
ここの古い衣は、人の天然の古い命による良い振る舞い、良い行為、宗教的な実行を象徴します。 |