出典 |
フットノート |
使徒 27:43 注1 |
これは再び、ご自身のしもべの命を救うために行使された主の主権でした。 |
使徒 28:1 注1 |
あるいは、メリタ。 |
使徒 28:2 注1 |
あるいは、未開人(4節も同じ)。ギリシャ語もラテン語も話さない人たちですが、必ずしも野蛮ではありませんでした。 |
使徒 28:4 注1 |
文字どおりには、獣。医者である筆者は、毒蛇を示すためにこの用語を用いました(同じ言葉が5節にも使われています)。 |
使徒 28:4 注2 |
ギリシャ語は、「ディケー(Dike)」。おそらく、ギリシャ神話の中の、正義の報復をつかさどる女神のことを言っているのでしょう。 |
使徒 28:6 注1 |
使徒は、好奇心の強い土着民が思った迷信的な神ではなく、その生活と務めの中で、真の神を表現しました。神はイエス・キリストにおいて、受肉、人の生活、十字架、復活の手順を経過し、すべてを含む霊として、その時パウロの中に、また彼を通して生きておられました。 |
使徒 28:9 注1 |
嵐の海で、主は使徒を、同船の仲間たちを所有する者としただけでなく(27:24)、彼らの命を保証する者、彼らを慰める者ともされました(27:22、25)。今や無事に陸上に着いて、主はパウロを、その迷信的な人々の目に魔術的な魅力のある者としただけでなく(3―6節)、彼を島の人たちにいやす者、喜びともされました(8―9節)。囚人としての長く不幸な航海の間中、主は使徒を優越性の中に保ち、思い煩いの領域をはるかに超えた生活をすることができるようにされました。この生活は、完全に威厳があり、最も卓越した神聖な特質を表現する人の最高水準の美徳を伴っていました。それは、何年も前に、主ご自身が地上で生きられたような生活でした。これは、神性によって豊かにされた人性の中で、再び地上で生きられたイエスでした! これは、すばらしい、卓越した、奥義的な神・人であり、彼は福音書の中で生き、彼の多くの肢体の一人を通して、使徒行伝の中で生き続けられました! これが、受肉し、十字架につけられ、復活し、神が高く上げられたキリストの生ける証しでした! パウロはその航海中、キリストを生きて、大きく表現しました(ピリピ1:20―21)。人々がパウロと仲間たちを大いに尊敬したのも(10節)、すなわち、最高の敬意と最高の配慮をもって尊敬したのも、不思議ではありません! 神に遣わされた大使は、人々から、そのような敬意と配慮を受けるはずです。 |
使徒 28:11 注1 |
ギリシャ語は「デオスクリ(Dioskouroi)」。ゼウスの双子の息子のカストルとポルックスであり、水夫たちの守護神でした。この双子の像が、船首に取り付けられていました。 |
使徒 28:15 注1 |
すなわち、ローマ。 |
使徒 28:15 注2 |
ローマからの兄弟たちの温かい出迎えと、ポテオリの人たちの愛の配慮(13―14節)は、初期の時代にあった諸召会と使徒たちの間の、麗しいからだの生活を見せています。この生活は、サタンが暗くした人の住む地上における、天の王国の生活の一部分でした。外見上、使徒は、捕らわれの囚人として、サタンが横領した帝国の暗黒の首都の区域に入りました。実際は、キリストの大使として、彼の権威をもって(エペソ6:20.マタイ28:18―19)、地上の神の王国で、キリストの召会のからだの生活にあずかっている、もう一つの部分へと来たのです。サタンの帝国で宗教の迫害を受けながら、彼は神の王国の中で召会生活を享受していました。これはパウロにとって、慰めであり励ましでした。 |