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出典

フットノート

ローマ 3:21 注2 第1章17節(1:17)のノート1を参照。次の節も同じです。
ローマ 3:21 注3 ユダヤ人は律法を守ることによって、神の義を追い求めました。しかしながら、彼らはそれに到達しませんでした。律法の行ないによっては、いかなる肉も、神の御前に義とされないからです(20節)。しかし今や、律法とは別に、キリストにある信仰を通して(1:17)、神の義がわたしたちに明らかにされました。
ローマ 3:22 注1 あるいは、イエス・キリストにある信仰。この信仰は、わたしたちの中にあるイエス・キリストの信仰を言います。それは、わたしたちが彼を信じる信仰となりました(26節ガラテヤ2:16,203:22エペソ3:12ピリピ3:9)。
 信仰には対象があり、信仰はその対象から出てきます。この対象は、受肉した神であるイエスです。人が彼に聞き、彼を知り、彼を評価し、彼を尊ぶ時、彼は人の内側に信仰を生じさせて、人が彼を信じることができるようにされます。こうして、彼が人の中で、彼を信じる信仰となられるのです。ですから、この信仰は彼にある信仰となり、彼に属する信仰でもあります。
 神の新約エコノミーの中で、神は人が、受肉した神であるイエスを信じることを願われます。もし人が彼を信じないのでしたら、神の前に唯一の罪を犯します(ヨハネ16:9)。しかしながら、もし人が彼を信じるのでしたら、神の前に極みまで義となり、神はこの信仰をその人の義と認められます。同時に、この信仰はその対象、すなわち、神が受肉した方を、彼を信じる者たちの中にもたらされます。彼は神の義であり、神は義としての彼を、彼が内住している者たちに与えられました(エレミヤ23:6)。これはすべて、彼にある信仰、彼の信仰からであり、それに基づいています(ヘブル12:2)。
ローマ 3:23 注1 神の栄光とは、表現された神です。神が表現される時はいつも、神の栄光が見られます。人は神によって、神のかたちに造られました。それは人が、神の栄光のために、神を表現するためです。しかし人は罪を犯して、神の聖と義に相反しました。人は神を表現するどころか、罪と罪深い自己を表現します。ですから、人は神の栄光に欠けています。神の栄光と表現に欠けていることが罪です。罪人は、神の聖と義の要求の下にあるだけでなく、神の栄光の要求の下にもあります。すべての人は神の聖であることに違犯し、神の義の律法を破り、すべて神の栄光に欠けています。こういうわけで、すべての人は神の罪定めの下にあります。
ローマ 3:24 注2 キリストがわたしたちの罪のために代価を払い、彼の贖いにおいて、わたしたちに対する神のすべての要求を満たされたからには、神は義であられるので、わたしたちを価なしに義としなければなりません。そのような義認は、神の恵みによるのであって、わたしたちの行ないによるのではありません。
ローマ 3:24 注3 贖うとは、代価を払って買い戻すことです。わたしたちはもともと神に属していましたが、罪のゆえに失われました。神の聖、義、栄光の要求が、わたしたちにとってあまりにも大きかったので、わたしたちがそれを満たすことは不可能でした。しかしながら、神はキリストを通してわたしたちのために代価を払い、大変な犠牲をもって、わたしたちを再び所有されました。キリストは十字架で死んで、わたしたちを贖ってくださいました(ガラテヤ3:13テトス2:14Iペテロ2:243:18)。彼の血はわたしたちのために、永遠の贖いを獲得しました(Iペテロ1:18―19)。
ローマ 3:24 注1 義とすることは、神が彼の義の標準にしたがって人を赦す彼の行為です。神がこれを行なうことができるのは、キリストの贖いに基づいています。
ローマ 3:25 注1 旧約で、なだめの場所、契約の箱のふたは予表であって、至聖所に隠されていました。新約では、なだめの場所の実際としてのキリストは、すべての人の前に公に立てられています。
ローマ 3:25 注2 なだめの場所は、出エジプト記第25章17節(出25:17)で、契約の箱の上の、罪を覆うふたで予表されています。契約の箱は、神が民と会われる場所でした。箱の中には、十戒の律法がありました。それは、その聖と義の要求によって、神に触れるために来た民の罪を暴露し、罪定めしました。ところが、なだめの日に、箱のふたの上になだめの血が振りかけられることによって、罪人の側の状態がすべて、完全に覆われました。ですから、罪を覆うこのふたの上で、神は彼の義の律法を破った民と会うことができました。神はこれを、行政上、彼の義に何の矛盾もなく、神の栄光を担い、その箱のふたを覆っていたケルビムが見つめている下でさえ、行なうことができました。こうして、人と神との間の問題はなだめられました。神は人を赦し、人に対してあわれみ深くあり、それによって、神の恵みを人に与えることができるようになったのです。これは、キリストが神の小羊として、人が神に対して問題を引き起こす罪を取り除き(ヨハネ1:29)、こうして神の聖、義、栄光の要求すべてを満たし、人と神との間の関係をなだめることの予表です。こういうわけで、人がかつて引き起こした罪を、神は見過ごすことができたのです。神は彼の義を明らかに示すために、これを行なわなければなりませんでした。これが、この節で言っていることです。
 契約の箱のふたは、ヘブル語ではカポレス(kapporeth)で、その元の意味は「覆う」です。七十人訳では、この言葉をヒラステリオン(hilasterion)と訳しており、これは「なだめの場所」を意味します「「なだめ」は赦し、あわれむことを暗示します―「なだめの」(ヘブル8:12)と訳された言葉は、ヒラステリオンの語根で、「なだめられた」(ルカ18:13)と訳された言葉は、この語根から派生したものです」。キング・ジェームズ訳は、「あわれみの座」(mercy seat)という訳を採用し、神が人にあわれみを与える場所のことを言っています。パウロはヘブル人への手紙第9章5節(ヘブル9:5)でも、契約の箱のふたを言うのに「ヒラステリオン」という言葉を用いています。ローマ人への手紙第3章25節(ローマ3:25)でも同じ言葉、「ヒラステリオン」が使われていて、契約の箱のふたが、神によって立てられたなだめの場所としてのキリストを象徴することを示しています。
 「ヒラステリオン」以外に、新約では、それと同じギリシャ語から派生した二つの言葉が使われていて、キリストが人の罪を取り除いて、人と神との関係をなだめたことを示します。一つは「ヒラスコマイ」(hilaskomai―ヘブル2:17)で、「なだめること」、すなわち、「和らげること」、一方の要求を満たすことによって和解させることを意味します。もう一つは「ヒラスモス」(hilasmos―Iヨハネ2:24:10)で、「なだめるもの」、すなわち、なだめのいけにえを意味します。キリストは、わたしたちの罪のためになだめを成就されました(ヘブル2:17)。ですから、彼はわたしたちと神との間でなだめるもの、なだめの供え物となり(Iヨハネ2:24:10)、さらに契約の箱のふたで予表されているように、なだめの場所となられたのです(ヘブル9:5)。そこにおいて、わたしたちは神の御前でなだめを享受し、神はわたしたちに恵みを与えられます。
ローマ 3:25 注3 旧約時代、人々の罪は取り去られたのではなく、キリストの予表であった動物のいけにえの血で、覆われただけでした。神はこれらの覆われた罪を、キリストが来られるまで見過ごされました。キリストは、世の罪を取り除く神の小羊でした(ヨハネ1:29)。彼は十字架上で死に、贖いのために血を流して、それまで覆われ、見過ごされてきたすべての罪を取り除かれました。彼らの罪を見過ごすことで、神は彼の義を、旧約の聖徒たちに明らかに示されました。
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